言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「表現の自由」は休み休み言へ

2019年08月13日 12時01分29秒 | 評論・評伝

 この暑さに人々から飽きられたか、やうやく愛知県の美術展論争が下火になつてきた。あの慰安婦像を展示することの「自由」を公権力が奪つてよいかが論じられた。それに対して「憲法が保障してゐる自由には制限がある」との趣旨から反論してゐる人もゐた。前者が大村愛知県知事で、後者が河村名古屋市長である。このムラムラ論争、まことにつまらなかつた。憲法解釈を論じるほどの事柄ではないからだ。

 そもそもどなたかが発言してゐたやうに、あの慰安婦像は美術作品であるのかどうか、それが甚だ疑問である。人を不快にさせるから美術品ではないといふのではない。ピカソの絵でも十二分に不快である、さういふ人もゐる。モネの絵にしてもゴッホの絵にしても快であると断言できる人が圧倒的に多いといふわけではなからう。しかし、それらの作品があらゆる文脈を持たずに作品として存在してゐるから美術作品なのである。ところが例の女性像は、「慰安婦」といふ名称によつてのみ美術館に置かれるやうな代物だ。それなしにあの作品に対して「表現の自由」だとか憲法違反だとかが取りざたされることなど考へられない。それには像の出来不出来も関係ない。下手だから美術展に置くなと言つてゐるわけでもないからだ。言つてしまへば政治論争である。政治の文脈でのみ最初から最後まであの像は存在価値を持つ。それは美術作品ではない。

 藝術品かどうかは、その作品があらゆる文脈とは無関係にそこに存在する意味があるかにかかつてゐる。表現の自由とは本来さういふ場面で使はれる言葉である。ムラムラ論争で言はれる「自由」は何らかの束縛「からの自由」に過ぎない。それは表現の自由の問題ではなく、政治闘争である。そこでもし藝術について論争するのであれば、藝術品としてその像がどんなこと「への自由」を求めたものなのかどうかといふ一点である。作者がその任に相応しい能力を持ち、体現してゐるかどうかである。表現の自由は能力の問題でもある。誰でも彼でも「俺の作品を美術館に収めろ」と言へば収めてもらへるのか、といふことを考へれば分かる簡単な理屈だ。しかし、ムラムラさんは両者ともそのことについては美術評論家に任せるといふに違ひない。行政が口を出すことではないと言ふだらう。ところが、その程度の見識しかない人が、津田某を藝術監督には任命するのだから、笑ひが止まらない。冗談は休み休み言へである。津田某にはそれができると大村知事が判断した根拠は何なのか。それには関心がある。

 私は、あの像は徹頭徹尾藝術品ではないと考へてゐる。あの像によつてどんな世界が拓かれたのか。私たちにどんな新知見がもたらされたのか。それが金輪際感じられない。そんなものを題材に「表現の自由」などといふ大問題を論じてくれるなだ。

 これだけ暑いのだから、もうちよつと楽しくなるやうな、知的に刺戟を受けるやうな話題を提供してくださいな。ムラムラではなくムカムカしてしまつた。

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