言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『騎士団長殺し』を讀む。

2019年08月17日 10時55分55秒 | 本と雑誌
 
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
 
 

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)
村上 春樹

新潮社

 

騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

 

騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

 村上春樹の作品を久しぶりに讀んだ。イギリスのイートンに短期留学してゐた生徒が日本に戻つて来ると、「文学部に行きたい」と言ひ出した。その生徒とは進路について話をしたことがなかつたが、イートンの様子を教へてくれないかと尋ねたところ、喜んで話をしてくれた。2時間ほど話をしてゐるうちに進学の話題になり、当地の文学の授業がたいへんに面白かつたといふことでさう思つたらしい。

 海外の大学も考へてゐるといふことなので、それなら問題はないのだが、もし日本の大学の文学部に行くとなれば「日本の文学部の授業が君の関心と合ふかどうかは疑問だ」といふことは率直に話した。さてどうなるか。幸運を祈つてゐる。

 文学の話をしてゐた時に、どんな作品を讀んでゐるのかと訊くと「日本人なら村上春樹」とすぐに答へた。よくある返答である。こんなときに「石川淳です」とか「谷崎潤一郎です」とか答へる生徒がゐたら驚くところだ。「それで、どの作品が好きかな」と訊くと「これと一つ挙げることは難しい」といふことだつた。それであれこれと話題は膨らんだが、「先生は、『1Q84』で讀むのをやめた」と答へると、不思議さうな表情をしてゐた。「村上春樹は、考へる様子をよく「地下二階に降りる」といふ比喩で説明する」と話すと、驚いた表情をして「それなら『騎士団長殺し』を讀んだらどうですか」といふことになつた。

 まあ、こんないきさつで本書を讀むことにした。こんな言ひ訳エピソードを書いてからでしか、村上春樹の小説を再び讀んだことを記せないのである。それほど心にひつかかる作家である。

 あらすぢは、書かない。しかし、「やはり」と言つてよいだらうが、これまでの感想と同じく不吉な印象であつた。これまでと違ふのは、表現者(画家)が主人公であるだけに、村上春樹の思考スタイルを表す「地下に潜る」といふ行為が、小説の題材としても使はれてゐるといふことである。画家Aのことを画家Bが描き、画家Aの作品を画家Bが追体験していくといふことは、村上春樹の内向がいよいよ深まつてゐるといふことではないかと考へた。世相はますます浮かれてゐるが、そんな世相に対してこんなにも内向してゐる登場人物を描いた小説が相当の数の読者を得てゐるといふことは興味深い。もちろん、読者の数など100万人だとしても、1億3千万人からすれば、1%に満たないのであるから不思議なことではないのかもしれないが、それでもそれだけの人がこの作品の趣向に共感してゐるといふことは特筆すべきであらう。

 でも私は「不吉」と感じた。それはどういふことか。穴にこもるといふことがやはり相当に恐ろしいことだからだらう。考へるといふことは孤独になることである(アクティブラーニングでは穴にこもる必要はない。したがつて、そこにある思考とは、本来の思考とは別物であると考へた方がいい)。村上春樹にはそれに耐へ得る知識も教養も、そしてなにより体力がある。物語を書き続けるといふ仕事を持つてゐる職業作家には、地下から戻つて来られる地上がある。そして地上と地下との往還を成し遂げるほどの「力」がある。しかし、その往還を果たせぬ者には、生活=穴(地下二階)になつてしまふ危険が大きい。そこに不吉を予感させる原因がある。もちろん、そんなに深刻に考へる必要はないかもしれぬ。しかし、救ひを用意しない冒険は作家一人には許されても、読者を巻き込むことは避けるべきだ。穴は、穴から脱出できる「力」を持つ人だけに許された冒険の場所である。救ひとは掬ひであり、上にあげるのが本来の意味である。穴に入らなければ何かを見出すことはできないといふ真実に気づくといふことは大事なことなのだらうが、そこにとどまつてしまふのは不吉でしかない。

 今回もまた、解決のないまま課題は残されてゐる。かういふ小説があり、かういふ小説を書く作家がゐてもよい。だが、サリンジャーにはそれを受け止めるキリスト教がある(ライ麦畑で遊ぶ子供たちが崖から落ちないやうに捕まへてくれる人がゐる!)が、村上春樹の不吉を支へるものは私たちにあるだらうか。少なくとも文化といふものさへ私たちの国から蒸発しつつあるなかでは、ただ不吉だけが残るのではないか。99%の人々は安楽に過ごし、苦しむ1%の人々はいよいよ内向していく。これが私たちの令和である。

文學界 9月号
文藝春秋
文藝春秋

 『文学界』に、村上春樹のインタビューが載つてゐた。新潮社で出した本について文藝春秋がインタビューする。それが許されるといふのはやはり「大作家」には違ひない。文藝評論家の湯川豊(この方、丸谷才一にもかなり突つ込んだインタビューをしてゐただけに、さすがである)が、かなり突つ込んだ質問をしてゐて、讀み応へがある。それから、村上春樹の話題ではないが「国語教育改革」に対する記事も個人的に面白かつた。

 

 

 

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ひらく』創刊 | トップ | 「アルキメデスの大戦」を観る »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
返答 (ある高校生)
2019-09-05 19:33:41
僕は先生が村上春樹に「ひっかかる」というのがわからないでもありません。
ですが、僕は村上春樹の小説が好きです。
その理由は、文学という世界への入り口を提示してくれた、というように感じるからです。
僕ら高校生の世代が声を揃えて「村上春樹」と答えるのは、そういう理由があるからではないでしょうか。
「文学」と称される他の作品は、文学の面白さを知るのが少し難しいという障壁がありました。
また、教科書に書かれている小説は、押し付けられているようで、しかも先生に解説されて、こう読むのが正解だと言われているようで受け付けにくいような気がしています。(トカトントンはとてもよかったですが)
でも、村上春樹さんの小説は、そういうバリケードがそもそもないと思います。
自分の読みたいように読み、解釈して、ああ面白いと感じられるのだと思います。
さらに、「なんども読む」という作業を楽しいとも思わせてくれました。
本よりも動画などで楽しむことが多い僕らの世代に、光を与えてくれるようなきっかけになったのです。
多くの人に支持されている理由の一つとは言えると思います。

でも近頃、古典的な良さを知った(と感じ始めた)以後、先生が感じることもわかってきたような気もします。

なんにせよ、もっと多くの小説を読んで、考えを深めて行こうと思います。僕たちは日本の文化や歴史を、あたかも外国語を学ぶかのように教えられているけれども、実は歴史や文化の今まで続いてきた線の上に立ち、その線を伸ばし続ける義務を負っていることに気付いたからです。当然で、しかし多くの人が自覚していないように思うことです。
返信する
國語教師失格 (前田嘉則)
2019-09-05 23:06:38
 コメントありがたう。
 拙文を読んでくれてありがたう。読み直してあまりのひどさに驚き、慌てて書き直した。思考の速度に記述の速度が追ひ付かず、どうしても飛躍を生じてしまふ。註文原稿はそれを怖れるから、時間を置いて書き直すが、自分のブログは見直すこともなく、その結果悪文がそのまま放置されることになる。コメントをもらつたり、アクセス数が伸びたりしたときには、もう一度読み直すことになるが、そんな時は大概「ひどい文章」を手直しすることになる。
 さて、貴君の読書生活、なかなか充実してゐると思ひます。私はそれを否定したり批判したりはしません。或る作家への批判は、それを読んでゐる人へのものではなく、あくまでもその作品への批評なわけです。
 また、授業で読んだ小説が面白くないのは、読み方を強制されるからだといふのであれば、それは私の力不足といふことでせう。たとへば、『山月記』や『こころ』は、授業の内容など忘れた頃に、もう一度読んでみたら、面白いと思ふかもしれません。私は、さうやつて『こころ』を何度も読んだし、好きになつたり嫌ひになつたりしました。『トカトントン』だつて、今回授業をすることによつてこれまでの読みとは大きく変化しました。読み方は変化してよいのでは(もちろんいい加減な読みはだめですが)と思ひます。内面が変化すれば、本はその度に違ふ顔を見せてくれる。さういふ読書こそ豊かな読書なのではないかな。
 もちろん、それを貴君は村上春樹で体験してゐるといふのであるから、十分豊かな読書生活をしてゐるといふことでせう。
 ただし、私の内面の変化が、これまでの自分の愛読書を食ひちぎり、別のものを求めるやうになつた時には、静かにしかし勇気を持つて次の場所へ行くべきだとも考へる。もちろん、それが必ず起きるわけでも、起きないことが停滞を意味するのでもない。
 私にとつてさういふ批評家はゐたし、作家もゐた。しかし、今もまだその作品から学ぶことばかりといふ批評家もゐる。最近は貧しい読書生活だけれども、豊かな世界を持つたその批評家の文章を少しだけ読むことで救はれることがある。だからその時間を大切にしてゐる。
 君の読書生活の幸運を祈つてゐる。
返信する

コメントを投稿