小説 アルキメデスの大戦 (講談社文庫) | |
三田 紀房 | |
講談社 |
今夏は映画を一本だけ観た。時間はあつたが、観たいと思ふ映画がこれだけだつた。夏休みは子供映画が多いのだと改めて思ふ。
戦艦大和がなぜ造られなぜ沈められたのかといふことが描かれてゐる。時代錯誤の発想と、組織防衛の論理とがそれを招いたといふ結論は、今日にも通じる日本社会の構造的欠陥であらう。さういふことをフィクションとCGとを通じて描かれるのである。その意味では新しいことは何もない。戦艦大和が轟沈するシーンから始まるのは監督のお手柄なのか原作の妙策なのかは分からないが、十二分に引き付けられた。大和が日本社会の象徴であると思へば、身につまされるやうな現実が私の周りにいくつもある。どうやつたら苦しまないで死ねるだらうかと考へながらそのシーンを観てゐた。なんて馬鹿なものを作つたのだとは今の私たちなら思ふだらう。空中戦の時代が来てゐるのに巨大戦艦大砲主義で挑むとはそもそもアナクロニズムであると笑ふこともできる。しかし、同じことを今もきつとしてゐるのだらう。特に教育の場面では保守的であるべきだと私は考へてゐるだけに、守るべきは何で変へるべきは何かを明らかにできない中での日々の営みは、もしかしたら戦艦建造と同じことをしてゐるとも限らない。戦略と教育とを同列に論じること自体が、映画を観ての混乱ぶりを露はにしてゐるだけ(アナロジーの乱用)とも言へさうだが、さういふアタフタ振りを記しておくことも自分の人生を美化しないためにも重要だらう。
それにしても、次期の軍用艦にどういふものを造るべきかとの会議でのやり取りがあまりにお粗末であるのが辛かつた。映画の出来がといふことではなく、またしてもその「身につまされ度」がである。戦艦の時代が終はつたとの信念があるのであれば、もつと理屈で反論すべしとも思ふし、妾がどうしたといふスキャンダルで相手を封じ込めようとの姑息な(その場しのぎの)方策しか出せない議論の低調ぶりが、日本人なのだと思はされる。
そのシーンを観て、「こんなはずはない」と思ヘる人がはたぶんゐないだらう。といふことは、「この通りだらう(多少はデフォルメしてゐるだらうが)」と思つたといふことである。となれば、日本人とはかういふものなのだ。空気の支配する社会である。今日的な課題で言へば「消費税の増税」についても、今や「消費税の時代ではない」といふことが分かつてゐても、「消費税で財政の安定を図るしかない」といふ消費税拡大主義には抵抗できない。そこでの議論はどういふものであつたのかは、何十年後かのドキュメンタリーで映像化されるのかもしれないが、「会議でのやり取りがあまりにお粗末るのが辛かつた」と再び私も書くに違ひない。そして、そのときは同時代に生きた人間として、どうすることもできなかつた自責がこもるからさらに「辛い」ことになるだらう。「どうやつたら苦しまないで死ねるだらうか」と考へることさへできないほどの辛さがあるのだらうか。
この映画の中には、一人の数学徒がその時代への抵抗者として登場する。黒板に数式を書きながら戦艦大砲主義が無駄の長物であることを証明するが、焼け石に水。それどころかやがて彼もまた軍艦に乗る人物となる。それも苦しいシーンである。映画ですら最後まで抵抗できる人物として描けないのである。フィクションでさへ日本人は、最後までアウトサイダーでゐる人物を造形することができない。何といふ貧困であるか。書斎で一人死んでゐた、あるいは獄中で戦後を迎へたとは書けないのである。
それならせめて「アルキメデスの敗戦」とすべきかと思ひながらこれを書いてゐる。