言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『情事の終はり』と『ゴジラ2014』

2014年08月03日 10時44分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

情事の終り (新潮文庫) 情事の終り (新潮文庫)
価格:¥ 724(税込)
発売日:2014-04-28
 グレアム・グリーンの『情事の終はり』の新訳が出たので、この夏休み読んでみようと思ひ、先日買つて読んでみた。タイトルとは違ひ、カトリックの信仰への葛藤ばかりが記されてゐて、それほどに改宗することが難しい、かの信仰に違和感を覚えた。その信仰は、それでゐて情事には寛容で(といふよりは、御存じのやうに告解あるいは懺悔の儀式をすれば赦されるといふこと)、その倫理観は逢瀬を重ねるペンドリックスとサラとの関係については、一向に頓着するものではなかつた。これがプロテスタントであれば違ふだらうにと思ふと、キリスト教の宗派によるちぐはぐさが際立つやうにさへ感じてしまつた。作者の体験に基づく私小説的なものであれば、その神学的な比較にはまつたく意味はないのであるが、この小説の主題は異邦人の私にはあまり切実なものとは映らなかつた。どんな読み方をすればいいのか分からない。無神論者が信仰を抱いていく過程であるといふ分かつたやうな解釈をしてゐる評もあるが、それは覗き趣味といふもので、キリスト教を信仰する気のない者の知的な遊戯であらう。果たしてそんなものがこの小説の主題であらうか。それならまだサラの男遍歴を暴いていく探偵小説的な面白みを読み取つた方がよい。もちろん、私はさういふゴシップには関心がないので、それも楽しめなかつた。ただ、次のやうな表現に出会つたときのみ、この小説家の観察眼の鋭さに感心した。

「しかし、『心配しないで』と言っている彼女の声を思い出そうとしても、その音の記憶がないことに気づいた。彼女の声色を使うことができない。滑稽に真似ることすらできない。それを思い出そうとすると、誰のものでもない音になってしまう――女性一般の声になってしまう。彼女を忘れる過程がすでに始まっているのだ。」

 たぶん実体験なのだらう。とても大切な記憶でありながら、それが薄れていく寂しさが滲み出てゐる。この小説の良さは、かうした心理描写ではないか、今のところさういふ気がしてゐる。

 『情事の終わり』を鞄に入れながら、近くの映画館に『ゴジラ』を観に行つた。ハリウッドのゴジラは恐竜物であらうと高を括つて行つたら、まともに怪獣映画であつた。口から火(?)を噴いてくれるし、相手になる怪獣もゐてくれる。ここまで日本のゴジラにオマージュを捧げてくれるのであるから(渡辺謙がはつきりと日本語で「ゴジラ」と発声してゐたのも膝を打つた)、悪い映画になるはずはない。IMAXの3Dといふ私にとつては生涯二回目の大盤振る舞ひ(一回目はアバターでした)で観た『ゴジラ2014』はたいへんにすばらしいものであつた。

 隠されてゐるメタファーをいろいろに解釈したい衝動にかられるが、この映画は童心に帰つて純粋にゴジラの姿を楽しみたいと思つた。「情事の終はり」に敵の怪獣は卵を産み、それを守らうとするが孵化することなく燃え尽きる。その時の叫び声は哀愁があつた。あるいはまた、ゴジラが怪獣と戦ふ姿は壮絶であり、その自己犠牲的な生き方が人類を守つてくれた。それらに愛情や正義を観るのは、私たちの勝手な想像であらう。彼らは何も語らないからである。

 何も語らない相手には、どう接してよいか分からない。だからこそ、そこに不安も希望も生まれるのであらう。信仰やら解釈やらが生まれる余地もそこにある。ゴジラの英語表記に「GOD」が入つてゐるのは出来過ぎであるが、西洋人にとつてもそれほどに魅力的であるといふことは、どうやら本当のことのやうだ。「情事の終はり」にならへば、今回のゴジラは「事態の始まり」とも言へるやうなものであつた。背中を見せながら泳ぎ、しばらくして海底に消えていくゴジラは、サラのやうに情事の後に死んで消えてしまつたのではなく、やがて出てきてくれる期待を残してくれた。もちろん、それは破壊王なのかもしれないといふ恐怖を内に孕んだものではあるが。

 もう一度観てもいいとさへ感じた。

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価格:¥ 1,296(税込)
発売日:2014-06-30

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