言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

東大研究室訪問

2014年08月20日 10時03分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、生徒の引率で東京大学の本郷キャンパスに行つた。先月も、同じやうに駒場キャンパスに出かけたが、駒場では感じなかつたことがあつた。

 もう25年ぶりの東大であつたから、以前の印象は記憶の彼方ではあるものの、以前より狭さを感じてしまつたのである。立派なビルが建ち、ちょうど工事中で、工事車両やら工事現場を囲むフェンスやらがあつたせいもあるだらうが、手狭であるのは事実であらう。学問の専門化が進むのは必然である。といふことは物理的には研究室が増えるといふことでもある。どんどん建物が建ち、何もない空間は少なくなつていく。昨今の大都市にある私立大学の建築物が新宿辺りの超高層ビルをモデルとしたやうな物になつていくのは、研究の細分化と無縁ではない。

 庭であつたところが、研究の使用価値によつて建築敷地となり、予算を獲得してビルを建てる。空間が生み出してゐた計量不可の何ものかが、研究の資源として生かされる。それはそれでよいのだが、空間が生み出してゐた価値は固定されてしまふ。

 大学の敷地はもつとゆつたりとしてゐていいのではないか。東京にそれを求めても仕方ないだらうと言はれればそれまでであるが、思ひ切つて大学院は郊外へといふのはどうだらうか。大学を郊外に移転して失敗したのであるから、大学院を郊外へ持つていけばいい。大学生は遊びたいから都会がよかつたのではないか。それならその現状に合はせて都会に大学を、郊外に大学院をとすればいい。ただし、大学の先生は基本的に大学生だけを対象とし、大学院の先生はじつくり少人数制で郊外で教へるのがいいのではないか。大学と大学院とは明確に分ける。大学にはリベラルアーツを専門にするところがあつてもいいし、大きな大学院のぶら下がりに小さな大学を作ればいいのではないかと思つてゐる。

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