言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『華岡青洲の妻』を讀む

2014年08月15日 09時17分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

華岡青洲の妻(新潮文庫) 華岡青洲の妻(新潮文庫)
価格:(税込)
発売日:1970-02-03
 有吉佐和子の続き。

 『華岡青洲の妻』を讀む。世界で初めて全身麻酔により手術を行つた人である青洲、そして麻酔薬の開発のために妻が犠牲になつたといふ話しか知らずに讀んでみた。すると、中身はまつたく違ふ様相であつた。

 有吉の描きたかつたのは、嫁と姑との愛憎劇であると同時に、美談の一枚下にある実相であらう。何も美談を汚したいわけではない。さういふ暴露的な趣味は文章には一切ない。嫁と姑の視線の交はり、そしてその意味、心理の襞をそつとはがしていく筆遣ひは慎重で、決して決めつけによつて俯瞰するやうなところに作者はゐない。

 青洲の愛情を一身に引き寄せたいがために、母と嫁とは麻酔薬実験へと我先に志願するが、その場面でもどこか慎重に書きとめてゐる気配があつた。すると後の方でかういふ記述が出てくる。青洲との間に生まれた長女を失つた妻が、その悲しみを一生抱へて生きるぐらゐなら、夫青洲の役に立ち、医療の進歩の役に立つために死んだ方がいいと思つてゐるのである。するとさういふ自分に気づいた嫁が、さう言へば姑も息子青洲の実験台にあれほど強く志願してゐたののは、直前に娘(青洲の妹)を病気で失つてゐたからではなかつたのかといふことに思ひ至るのである。一つの行動の背後にある感情は一つであるはずがない。さういふ当たり前のことを描くのには、嫁姑といふ定番の葛藤劇がふさはしいのである。いかに私たちが決めつけと誤解を「真実」と受け止めてゐるか。

 小説の持つ魅力を堪能させてもらつた。

 じつは、青洲が紀州和歌山の人であることを知らなかつた。博物館もあると言ふ。もう少し早く知つてゐればこの夏に出掛けられたのにと思ふ。ぜひとも一度出かけてみたい。

コメント
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