言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『恍惚の人』を讀む

2014年08月09日 12時00分14秒 | 文學(文学)

恍惚の人 (新潮文庫) 恍惚の人 (新潮文庫)
価格:¥ 724(税込)
発売日:1972-05-27
 名作、有吉佐和子の『恍惚の人』を讀んだ。

 妻として、夫の父親の痴呆にどう対処していくのか、その過程が小説として描かれてゐる。書かれたのが、昭和47年だから1972年のこと。今から42年前。言葉は、老人性痴呆症が認知症に変はつたけれども、内容はまつたく変はつてゐない。身体の変化は時代によつて変はるはずもなく、むしろ変はらないで驚きなのは、さういふ身体の変化に家族がどう対処すべきなのかといふことについて一向に変化がないことである。

 夫は仕事に出て行き、その妻が家で舅や姑の介護をする、さういふ事態の深刻さを受け止めるのはその妻一人であるといふ家族がたぶん世間には今も多いのだらうと思ふ(あるいは、今では老老介護といふことがあるから、老父が老母を、老母が老父をといふこともあるだらう)。小説の中にも書かれてゐたが、不老長寿を祈願してゐたら長寿だけが実現してしまふと「老い」だけが残つてしまふ。祈りの果ての悲劇は、願つたものであるがゆゑに遠ざけることはできない。幸福な社会にもまた苦難はあるといふことだ。

 妻の名前は「昭子」。この夫人の名前は決して忘れられない。最後に、かういふ描写があつて、この小説は終はる。

「昭子は鳥籠をかかえたままぺたんと坐り、すると昭子の胸でホオジロが羽をばたつかせ、ちょっとうめいた。その拍子に涙が眼から噴きこぼれたが、自分が泣いていることに気がついたのはそれから随分後のことだった。昭子は鳥籠を抱きしめ、いつまでもそうして坐っていた。」

 義父・茂造の介護に尽くしてきた姿である。しばらくは涙も出なかつたが、ふとしたことで涙が噴きこぼれた。凄絶と言つてよい昭子の奮闘振りであつた。

 讀後、武田友寿氏の解説を讀むと、有吉佐和子はカトリックの信者であつたと言ふ。なるほどと思へた。凄絶な格闘を一人引き受けることができた昭子の姿に、他者非難の気配がほとんどないことに驚いてゐたが、さういふ覚悟はまさに信仰的人生観があるのかと知らされた。いつでも昭子は、他者を受容してゐるのである。それは義父にたいしてだけではない。かういふ箇所があつた。昭子の家の離れに住んでゐる学生運動をしてゐる若い夫婦にたいしてのものである。

「今どきの若い者っていうが、君の話を訊くと、離れの二人は親父には親切らしいじゃないか」

「そうなのよ。頼みもしないのに、おむつまで取替えてくれるんですもの。でも理由は親切からじゃなくて、自分たちが臭いのを我慢できないからなんですって。私が恐縮したら、別に感謝されるようなことじゃないって言うの。社交辞令でもないみたい」

「それが新しい倫理の基本になるのかな」

 昭子の夫、つまり義父茂造の息子の言葉として語られる「新しい倫理の基本」など本当は倫理なのではないが、それでも若い夫婦の一過性の気分を肯定的に見ようとしてゐる有吉の思ひを感じるのである。さう言へば、こんな言葉もあつた。これも夫・信利の言葉である。

「人間は人間を無限に超越すると言ったのは誰だったかな」

「パスカルだろ」

「ほう、敏は知ってたか」

 敏とは、昭子と信利との一人息子である。

 タイトルの「恍惚の人」とは、もちろん茂造のことである。
「茂造はといえば、昭子が何をしているのかも分からぬように、とろーッとした眼を半ば閉じ、半ば開け、夢と現実の境界にある恍惚の世界に魂を浮かばせているようだった」。

 小説の中に、かういふ言葉があつた。「昭和八十年には六十歳以上の人口が三千万人を超え、日本は超老人国になる運命をもっている」。今年は、昭和八十九年である。もう「超老人国」である。そして私もすぐにその仲間入りである。さういふ時代とは恍惚の人の時代といふことなのであらうか。敏は、「パパも、ママも、こんなになるまで長生きしないでね」と語るが、さう記した有吉は、幸か不幸か、これを書いた十二年後53歳の若さで亡くなつてゐる。

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『情事の終はり』と『ゴジラ2014』

2014年08月03日 10時44分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

情事の終り (新潮文庫) 情事の終り (新潮文庫)
価格:¥ 724(税込)
発売日:2014-04-28
 グレアム・グリーンの『情事の終はり』の新訳が出たので、この夏休み読んでみようと思ひ、先日買つて読んでみた。タイトルとは違ひ、カトリックの信仰への葛藤ばかりが記されてゐて、それほどに改宗することが難しい、かの信仰に違和感を覚えた。その信仰は、それでゐて情事には寛容で(といふよりは、御存じのやうに告解あるいは懺悔の儀式をすれば赦されるといふこと)、その倫理観は逢瀬を重ねるペンドリックスとサラとの関係については、一向に頓着するものではなかつた。これがプロテスタントであれば違ふだらうにと思ふと、キリスト教の宗派によるちぐはぐさが際立つやうにさへ感じてしまつた。作者の体験に基づく私小説的なものであれば、その神学的な比較にはまつたく意味はないのであるが、この小説の主題は異邦人の私にはあまり切実なものとは映らなかつた。どんな読み方をすればいいのか分からない。無神論者が信仰を抱いていく過程であるといふ分かつたやうな解釈をしてゐる評もあるが、それは覗き趣味といふもので、キリスト教を信仰する気のない者の知的な遊戯であらう。果たしてそんなものがこの小説の主題であらうか。それならまだサラの男遍歴を暴いていく探偵小説的な面白みを読み取つた方がよい。もちろん、私はさういふゴシップには関心がないので、それも楽しめなかつた。ただ、次のやうな表現に出会つたときのみ、この小説家の観察眼の鋭さに感心した。

「しかし、『心配しないで』と言っている彼女の声を思い出そうとしても、その音の記憶がないことに気づいた。彼女の声色を使うことができない。滑稽に真似ることすらできない。それを思い出そうとすると、誰のものでもない音になってしまう――女性一般の声になってしまう。彼女を忘れる過程がすでに始まっているのだ。」

 たぶん実体験なのだらう。とても大切な記憶でありながら、それが薄れていく寂しさが滲み出てゐる。この小説の良さは、かうした心理描写ではないか、今のところさういふ気がしてゐる。

 『情事の終わり』を鞄に入れながら、近くの映画館に『ゴジラ』を観に行つた。ハリウッドのゴジラは恐竜物であらうと高を括つて行つたら、まともに怪獣映画であつた。口から火(?)を噴いてくれるし、相手になる怪獣もゐてくれる。ここまで日本のゴジラにオマージュを捧げてくれるのであるから(渡辺謙がはつきりと日本語で「ゴジラ」と発声してゐたのも膝を打つた)、悪い映画になるはずはない。IMAXの3Dといふ私にとつては生涯二回目の大盤振る舞ひ(一回目はアバターでした)で観た『ゴジラ2014』はたいへんにすばらしいものであつた。

 隠されてゐるメタファーをいろいろに解釈したい衝動にかられるが、この映画は童心に帰つて純粋にゴジラの姿を楽しみたいと思つた。「情事の終はり」に敵の怪獣は卵を産み、それを守らうとするが孵化することなく燃え尽きる。その時の叫び声は哀愁があつた。あるいはまた、ゴジラが怪獣と戦ふ姿は壮絶であり、その自己犠牲的な生き方が人類を守つてくれた。それらに愛情や正義を観るのは、私たちの勝手な想像であらう。彼らは何も語らないからである。

 何も語らない相手には、どう接してよいか分からない。だからこそ、そこに不安も希望も生まれるのであらう。信仰やら解釈やらが生まれる余地もそこにある。ゴジラの英語表記に「GOD」が入つてゐるのは出来過ぎであるが、西洋人にとつてもそれほどに魅力的であるといふことは、どうやら本当のことのやうだ。「情事の終はり」にならへば、今回のゴジラは「事態の始まり」とも言へるやうなものであつた。背中を見せながら泳ぎ、しばらくして海底に消えていくゴジラは、サラのやうに情事の後に死んで消えてしまつたのではなく、やがて出てきてくれる期待を残してくれた。もちろん、それは破壊王なのかもしれないといふ恐怖を内に孕んだものではあるが。

 もう一度観てもいいとさへ感じた。

GODZILLA ゴジラ OFFICIAL BOOK GODZILLA ゴジラ OFFICIAL BOOK
価格:¥ 1,296(税込)
発売日:2014-06-30

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『正論』9月号

2014年08月01日 07時25分23秒 | 告知

 『正論』9月号に拙論が掲載されました。御関心があれば御一読ください。

昨年末から、毎日数ページづつアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』をノートを取りながら読んでゐる。その中で感じたこと、考へたことを種として書いたものです。多くの人に直ちに共感を呼ぶやうな内容ではないかもしれませんが、それでも執筆を勧めてくださつた『正論』編集部と「時事評論」編集長の御厚意に感謝します。

タイトルは、「相対主義の陥穽にはまりきつた者たちへ」です。

正論2014年09月号

正論2014年09月号
価格:¥ 780(税込)
発売日:2014-08-01

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