言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『猿の惑星:創世記』を觀て

2011年10月17日 22時23分44秒 | 映画

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  先日、映畫『猿の惑星:創世紀』を觀た。觀始めて、どうしてこんな映畫を觀ることにしたのだらうと後悔した。理由は、二つ。

   一つには、生理的に受け付けなかつたこと。氣持ちが惡いのだ。猿が人間のやうに振舞ふこと。そして、出てくる人間の中に實に不快な言動をする者がゐて、それがたまらなく嫌だつた。

   もう一つは、猿が人間のやうになれば、感情もまた人間のやうになるはずなのに、そこだけは猿のままであつて、野生をむき出しにしてゐるのが興醒めであつた。有體に言へば、人間から銃を向けられれば、猿だつて恐怖を感じるはずなのに、彼等にはそれは無かつた。恐怖心など一切なく、人間をやつつけに行くのである。人間への敵對心が恐怖よりも優つてゐたと言ふのかもしれないが、あの猿たちにそれほどまでの人間への敵意がある必然性を、映畫は描いてゐなかつた。

   先日、朝日新聞で沢木耕太郎がかなりの分量を使つてこの映畫を論じてゐたが、私にはずゐぶんとその評が甘いと感じられた。「瑕はある。しかし、その瑕以上に、見てゐる私たちの心を昂揚させてくれるシーンがいくつもある。」と書いてゐたが、そのやうな「快感」はなかつた。感性の違ひと言へばその通りであるが、もつと辛口であつても良いと思ふ。

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