言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「諦」は「あきらめる」か。

2011年10月21日 12時52分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

つぎはぎ仏教入門 つぎはぎ仏教入門
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2011-07-23

 呉智英の『つぎはぎ仏教入門』を面白く読んでゐる。仏教についての私の疑問がつぎつぎと解けてゐる。マルクスがマルキストでなく、イエスがキリスト教徒でないやうに、どうやら釈迦も仏教徒ではないやうだ(考へてみれば当たり前だけど)。それで腑に落ちることが多くなつた。あんなこんなの仏教にたいする疑問が生まれるのは、後から釈迦の言葉にいろいろと付け加へられ解釈が付き足されて変化したゆゑであると知れば、納得がいくのである。そもそも釈迦はさうは言つてゐなかつたのかといふ感慨は、なかなかに爽快である。なるほどさういふことであつたか。例へば、輪廻転生。あんなこと言ふはずがない、インドの伝統的な考へにすぎない、さう思つてゐた。果たしてその通りであつた。釈迦が言つたのは解脱だけである。

 ところで、「諦」についての理解もこの書で知つた。一般に私たちは「諦」は「あきらめる」といふ意味で使つてゐる。しかし、仏教で言ふ「四諦」、つまりは苦諦、集諦、滅諦、道諦の「諦」は、「明察する」といふ意味である。さうでなくては意味が通らない。四つの諦めでは、何やらニヒリズムである。仏教の「苦諦」とは、人生を迷ひ苦しむとはどういふことかを「明らかにする」といふことである。なるほど、さうかと思つて、漢和辞典で調べると、何のことはない、明確に①つまびらかにすることと書いてあつた。②として(国語では)あきらめること、とあつた。どこでどうやつて変化したのかは分からないが、そもそも漢字のなかには「あきらめる」などといふ意味はないやうだ。

 しかしながらである。諦めるためには、明らかにする必要があるといふのは結構意味深長ではないか。例へば、娘を殺された父親が、「どうして娘がこんな目にあつたのか知りたい」といふことがあつたとする。もちろん、知つたからといつて娘が帰つてくるわけではない。しかし、私たちの人情として頷けるのは、原因を知りたい、せめて原因だけは明らかにしたい(明らめたい)といふ気持ちである。原因さへ「明らめられ」れば、心理的に「諦めら」れる。「明らかにする」ことができれば、「諦める」こともできるのである。さうであれば、明らめると諦めるとは心理的には連続してゐるといふことも理解できる。

 もちろん、こんな小難しいことを言はずとも、言葉自体がそれを示してゐるとも言へよう。漢字が入つてくる以前から、「あきらめる」といふ言葉はあつたのであるから、「明らかにする」と「諦める」とは同じ言葉の範疇に入つてゐたのである。和語の世界では同じである。

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