言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「一命」を觀る。

2011年10月19日 23時11分39秒 | 映画

一命 (講談社文庫) 一命 (講談社文庫)
価格:¥ 500(税込)
発売日:2011-06-15
 悲劇はどうやら時代劇でしか描けないやうだ。それを實感する作品であつた。切腹を見届けることは武士としての真つ当な生き方である。そのことが儼然とあるからこそ、家族のために狂言を使つてしまつた者が自害せざるを得なくなつたことが本当の悲劇になり得たのである。もしそこで「おぬしはそれほど生活が苦しいのか」と情けをかけて美談にしたのでは、あまりに「現代的」である。これは確かに悲慘な話である。救ひはどこにもない。かういふ悲劇は、同情と微温的な共感とにあふれた現代では決して起こり得まい。だから、かういふ映畫は現代劇では作れない。さうであれば、かつてはかうしたことが「常識」であつたといふことを思ひ出させてくれただけで、現代の映畫としては十分に意味があると思ふ。見てゐる者に刃を突きつける、さういふ作品であつた。

 役者が良かつた。音楽が良かつた。ただ、一点の不満は、井伊家の屋敷が暗すぎた。あの陰鬱さは過剰であると思ふ。

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