言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

卵は温めたら雛になるか。

2011年10月16日 22時15分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

 誰かの話を聞いたのだつたか、それとも本で讀んだことだつたか。「質を上げるには量をこなさなければならない。量をこなさなければ質は上がらない」といふ内容のことが記憶に殘つてゐる。

  隨分と亂暴なことを言ふなと思つた。必要條件と十分條件との差がまつたく示されてをらず、荒つぽい話だといふのが率直な感想である。

   多作の作家が、寡作の作家より好い作品を書くなどといふことなどあるまい。もちろん、その逆も眞實ではない。向上心とセンスと蓄積とがあつて、その上ではじめて書くといふ努力が成果を擧げていくのである。もちろん、それとても絶對的な保證をするものではない。

   量をこなせば質が上がるなどといふことを氣樂に書いたり、話したりできる人は、きつとさういふ努力をして來なかつた人であらう。もつと人間つて殘酷なものだらうよ。努力しても努力しても結實しない、さういふ事實にいかに附合ふか、さういふことを私なら書く。もちろん、これは努力しないことの免罪符にはならない。しかし、である。事實は、やはり事實である。

   レーニンであつたか。鷄の卵は、21日間あたためれば孵化して雛がかへる。これこそ量から質への轉換だと書いてゐた。勞働價値説である。唯物思想の持ち主なら、量は質へと轉換すると言ふのだらう。

  皮肉を言へば、受精卵ではない卵なら21日もしないで腐つてしまはう。これもまた質への轉換と言ふのなら、その強情さは買ふ。

コメント
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