漱石の短いエッセイに「素人と黒人」といふものがある。もちろん「黒人」とは「こくじん」のことではなく「くろうと」のことである。大正三年一月何日かに亘つて東京朝日新聞に掲載されたものであるが、その終はり近くにかうある。
「斯うなると俗にいふ黒人と素人の位置が自然顛倒しなければならない。素人が偉くつて黒人が詰らない。一寸聞くと不可解なパラドックスではあるが、さういふ見地から一般の歴史を眺めて見ると、是は寧ろ當然のやうでもある。昔から大きな藝術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、其人は黒人でなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潛るのでなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。」
もちろん、「詰らない素人」といふのもゐるものであつて、細かいところの良さも解らず全體を見ることもできない「局部も輪廓も滅茶滅茶で解らない」のは、「自分の論ずる限ではない」とも書いてゐる。
いつたいに黒人は、しだいに局部にこだはり過ぎるやうになり專門的になつて、全體を見失ひがちになつてしまふ。そこが缺點で「偉い黒人になれば局部に明らかなと同時に輪廓も頭に入れてゐる筈である」とも言ひ、「純然たる素人」か「偉い黒人」になるのが良いといふのが漱石の言ひたいことのやうだ。
話は變はるが――
藝術家は、構想理想といふ觀念の造形に秀でてゐるだけではなく、手で實際に作り上げる職人的な性格もあはせもつ。その點で、眼高手低といふ藝術家も案外多いであらう。理想は素晴しいが、造形の力には乏しいといふことである。小林秀雄や中村光夫の小説や福田恆存の戲曲も、さういふ面があるやうに思ふ。漱石の小説の破綻なども研究者によつて言はれるが、それでも今日に讀者を得てゐるところを見ると、「眼高」の方が「手低」よりも重要なことなのかもしれない。やはり理想のない藝術はどんなにうまくても心を打たないし、語らうとする藝術はどんなに下手でも心ひかれるところがある。