言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語22

2005年07月03日 15時29分15秒 | 日記・エッセイ・コラム
 人間の感情を、即物的で條件反射的で、記號化した言葉(「むかつく」といふやうな言葉)によつてしか示しえないといふ傾向は、個人の心理においてばかりではない。今や言葉を生業とする世界においても、「分かりやすく」といふスローガンを越える基準を探さうといふ姿勢はうかがはれない。
 今では誰もが逆へない「環境保護」といふことで言へば、人間は環境を破壞せずに生存できるのかといふ本質から目をそむけ、「地球にやさしい」などといふ、じつはとんでもない人間中心主義のスローガンを掲げることで、人人を誤魔化してゐる。細かい理由は省くが、「地球にやさしい」とは、環境破壞をして來た私たちの從來の理念を克服したものではない。
 敬語が話せない、とはマスコミでもしばしば取り沙汰されるが、なぜ敬語が必要なのかをマスコミは言へない。なぜなら、必要だと思つてゐないからである。マスコミもまた「通じれば良い」といふ基準以上のモラルを持つてゐないのである。
 國語は病んでゐる、間違なく病んでゐる。しかし、病んでゐることを自覺してゐないから、病状はますます惡化しくばかりである。さうであれば、今言ふべきは、「國語は病んでゐる」といふことを堂堂と言ふことであらう。國語への愛着とはさういふことである。
 田中克彦氏の文章について抱いた思ひは、加藤典洋氏の『敗戰後論』にも感じたことである。戰前の惡を示すには、「現代かなづかい」といふ惡を以て表現することのほうがふさはしい。さうした「ねじれ」を現代日本が持つてゐるのであるから、仕方ないといふやうな主張であつた。さうした「ねじれ」感覺は、歴史的假名遣ひを用ゐる福田恆存にはなく、「現代かなづかい」を用ゐた大岡昇平にはあつた、そしてまた、さういふ見方を發見した加藤氏にもまた、その感覺は共有されてゐるといふのだ。時代がねじれてゐるから、自分の使ふ言葉もねじるべきといふのは、どういふことだらうか。現代は、ゴミの處理に困つてゐるから、家を掃除する必要がない、なぜなら現代はゴミ社會であるからだ、家をきれいにしませうなどと主張をする人は、現代がゴミ社會であるといふ認識が缺けてゐるのだなどといふ主張を、皆さんはまともに議論する氣になるだらうか。
 言葉は時代を寫す鑑だからと言つて、時代に迎合させる必要はない、曇れば拭くのが當然とるべき態度である。
 しかしながら、そこには先に述べた新古典派の人々が共有した「一種の斷念」に基くやうな、微妙にニヒリズムを抱へながら、それでも言葉によつて立たうといふ意志を必要であらう。
 私は、國語の學者ではないから、これまでに述べたことも、今後述べることも細部については、專門家にとつてはあるいは噴飯ものなのかもしれない。しかし、國語は學者のものではないとは信念である。そして、私たちの言葉を私はかう考へ、かうあるべきだと考へてゐるといふことを述べたい。しかしながら、福田恆存が殘した言語論のかずかすが示す問題提起を、今の言語學が解決したとは考へられない。事態は昏迷してゐるといふのは、今まで述べたとほりである。



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