言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語23

2005年07月09日 20時41分57秒 | 日記・エッセイ・コラム
 私は、七年ほど前から、私自身の名前を記す文章は歴史的假名遣ひで書くやうにした。以前から歴史的假名遣ひに愛着を感じてをり、何度か書かうと試みたこともある。しかし、讀むことはできても、なかなか書くところまでは行かなかつた。それは技術的なことといふよりも、戰前生まれでもなく、學校で歴史的假名遣ひを學んだわけでもない私が書くことへのためらひである。だから、まづはそろりと私信において使つてみて、しだいに「文章」もそれで書くやうにした。今では、授業中の黒板にもついうつかり書いてしまふほどなじんでゐる。
 なぜ、歴史的假名遣ひを用ゐるやうになつたのか。それは簡單である。どう考へても現代人の發音にしか根據のない「現代かなづかい」で書くことにたいする抵抗が年を追つて強くなり、つひに使ふことを辭めたいと思ふやうになつたからである。「現代かなづかい」の理念からは、「あなたわ、そーあゆわなかった」と書くことを否定することができない。それにもかかはらず、「あなたは、そうはいわなかった」と表記する根據は何なのか。そして「あなたは、さうはいはなかつた」を間違ひとする根據はどこにあるのだらうか。
 そんなことを考へると、歴史的假名遣ひの正統性に心ひかれていくのである。
 今では、中學生に讀ませる文章にも、歴史的假名遣ひを使つてゐる。生徒や保護者からは、「困る」といふ文句は一向に出てこない。もともと讀むのに困るほど、難しいものではないのだから當然のことである。しかし、新聞をはじめとするマスコミや出版社は、何故か自主規制して「現代かなづかい」を使つてゐる。本来最も文字を尊重すべき文學の世界においてさへ、「自主規制」が行はれてゐるのであるから。
 戰後に出た「文學全集」は、それが個人全集であつても原文どほりではなく「現代かなづかい」を使ふものが多かつた。今ではそんなことはなくなつたが、もつとも今では「文學全集」自體が流行らなくなつてしまつたが。文庫は、いまでも原文を無視してゐる。しかし、それは本當にその人の作品と言へるだらうか。漱石や鴎外を「現代かなづかい」で讀んで、彼等を知つたやうに思つてしまふのは、何ともやりきれない思ひがする。
 假名遣ひは、單なる表記の手段ではない。それは日本人がどのやうに言葉を考へ、どのやうに言葉を使つてきたかといふ言葉の作法である。作法には約束がある。その約束を無視して、「發音」といふ現象を基準にした表現方法に還元するといふことは、作品をも台無しにすることであらう。

 契冲も、宣長も、漱石も、鴎外も、そして正宗白鳥も小林秀雄も福田恆存も使つてゐる。敬する人々が使つてゐる言葉遣ひの方が、現代人の發音を唯一の根據としたものよりも信頼できるから、私は使ふ。それで良いだらう。私がなぜ歴史的假名遣ひを使ふのか、さういふ質問には、これで答へた。



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