言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語24

2005年07月11日 22時02分48秒 | 日記・エッセイ・コラム
 そして、かういふ熱情をもつて、國語に愛着を示す文章を見るとき、何が大事なことかは自づから明らかであらう。

 今後、私の仕事がどういふ方向に進むにせよ、私の目の黒いうちは、國語問題目附役の仕事だけは手放さない。私が自ら「私の仕事」と稱するものに全く無關心な人も、また政治的發言にしか興味を懷かぬ人も、せめて國語問題についてだけは私に附合つて戴きたい。明治以來、日本の近代化の過程において、僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言
へば、日本の自然と歴史と、そして、この國語しか無いのである。
                       福田恆存評論集7「後書」

 近代化とは西洋化のことであり、明治以來、日本を含めて「遲れた國々」は、どこも自國の文化を捨てて、西洋化への道を邁進した。國民國家の成立、貧困からの脱出、國民衞生の向上、個人の發見などを伴ふモダライゼイションといふものの力は、過去の文化を破壞しつくほどに激しくてしたたかであり、世界を變へてしまつた。その道は、決して惡いものではなかつたけれども、もう少し愼重であつてもよかつたであらう。これはもちろん後の祭りで、いや後知惠で、當事者でないものののんきな放言にすぎない。深刻さのない好い気なものである。
 しかし、それでも、いやそれだからこそ今更ながら、失つたものを取り戻さうと思ふのである。
 「僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言へば、日本の自然と歴史と、そして、この國語しか無いのである」とあるについては、感傷的かもしれないが、涙を流してしか讀めない言葉である。國語への愛着は、日本への愛着であり、それは觀念ではない、裸足で歩いたあの大地への感觸に由來しよう。ごつごつしてゐるし、雨が降ればぬかるんで足下を汚すが、雨が降りはじめたときのあの土のかをりは忘れられない。
 ノスタルジーといつて片附けられる問題はない。近代化の行過ぎが、自然環境を破壞してきたのであり、その環境保護の動きをノスタルジーとは言ふまい。だとしたら、國語の破壞への警鐘もまた、單なる郷愁であるはずはない。
 裸足で歩かなくなつた大人達が、そのアスファルトの路面を、我が國土と錯覺してゐるやうに、利便性といふローラーにならされた「現代仮名遣い」を國語と錯覺してしまつてゐるのだ。道路は必要だ、しかし大地はそれに比較できようか。國語の大地は、いまや「利便性」に破壞され盡くされてゐる。「通じればよい」の精神は、いつの間にか「解つてほしい人だけに解ればよい」に墮落する。國語は私語になるとは、さういふ意味である。
 ここで、もう一遍近代化を見直さう。「通じればよい」といふ能率性、合理性、そして現代人の視點のみでの判斷、それらを總じての「近代主義」への再考である。人間が言葉を使ふのではなく、言葉によつて人間が誕生する、といふのが本當であらう。人間中心主義への批判である。
 近代化、この痛恨事への葬送、それをどう始末するか。私が、この國語問題へ執する理由も、どうもそのあたりにあるやうな氣がするのだ。



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