言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

私は馬鹿であるか。

2005年07月25日 22時43分06秒 | 日記・エッセイ・コラム
 松原正先生のことについて觸れた2ちゃんねるのスレッドに、「前田は馬鹿だ」といふことが書かれてゐた。好きな批評家に西部西尾兩氏と松原氏とが併記されてゐるからである。
 結論を言へば、私は馬鹿だ。西部西尾兩氏を批判する松原氏のいづれをも好きな批評家として擧げるのが「馬鹿」といふのなら、正眞正銘私は馬鹿である。私のプロフィールを變更する必要を感じないからである。これは開き直りでもない。
 では、いつたいなぜその三者を私は好むのか、じつはそれを探るなかで、私の批評が深まると思つてゐるからである。
 西部氏に對しては、ずゐぶん論つたが、それだけ私はよく氏の文章を讀んだからである。文體の影響も受けた。直接話をする機會も何度かあつた。好きなのである。でもをかしいなといふ思ひもある。
 松原氏の文章もよく讀んだ。これまた直接話をする機會も何度もあつた。でも違和感もある。細部の叮嚀さが本當に全體の價値を高めるのか、あるいは逆に細部の杜撰さが全體の價値を下げるのか、疑問がある。
 兩者にたいするアンビヴァレントを未だうまく説明できてゐない。それは私の怠慢かもしれないし、思考の不徹底といふ意味で馬鹿だからかもしれない。しかし、さう簡單に結論を出せるものでもないとも思つてゐる。
 したがつて、今の私は馬鹿である。いつの日か馬鹿でなくなるかもしれないが、たぶん當分馬鹿のままであらう。

コメント (1)
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