言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語25

2005年07月13日 21時18分52秒 | 日記・エッセイ・コラム
 古人が使つてゐるといふ根據だけでは納得しかねるといふ人のために、次の文章を引用しておく。

 たしかに、戰後の日本では、いはゆる新仮名づかひが正式の表記法とされて今に至つてゐる。その「正式」にさからふからには、何かそれなりの理屈があつてしかるべきだ、といふことにならう。しかし、本当のところ、釈明をもとめられるべきは、なぜ新仮名づかひを正式の表記としたのか、といふことの方であつて、もしそれが、ただ単に<より簡便である>といふだけのことであれば――そして、それ以上の理由づけを私は聞いたことがない――それはまことに浅はかな変更であつたと言ふほかはない。
               長谷川三千子『バベルの謎』

 あるいはまた、かういふ一文をみるとき、國語を守るとは、どれだけ大切なことであるかが分かる。松原正氏は、自衞官への激勵と邦人の防衞意識の缺如を突いて、次のやうに記してゐる。

 我々の文化は、我々の日本語は、今ここに生きてゐる我々だけのものではない。我々は皆、最初は母親から日本語を學んだ。母親は祖母から學んで、祖母は曾祖母から學んだ。(中略)私はこれまでに何囘も、古めかしい漢字と假名遣にこだはるのは賢明でないと自衞官に言はれた事がある。なぜ私が「古めかしい漢字と假名遣」にこだはるか、それが正しいからである。なぜ正しいか。先祖がそれを用ゐて來たからだ。人は言葉によつて物を考へ、正と不正を辨別する。だが、その言葉は母の言葉であつて、生れながらにして私が知つてゐたのではない。母は私に正字正假名を教へ、「教へる」と書けと教へて「教える」と書けとは言はなかつた。母乳の品質を吟味する事無く受容した私が、なぜ母の教へだけは吟味しなければならないか。古い假名遣を守るのは祖母や母の流儀を守る事だが、それはそのはうが「賢明」だからではない。「最後の手段」として文化を守る軍人に、さういふ事が理解出來ないやうでは困る。正しくない假名遣を許容する者は、軍隊を虚假にする不正をも許容するであらう。自國の文化を守るべく「最後の理性」に訴へねばならぬ武人が、「賢明」に振舞つて何とか軍隊として認知されたいと願つて虚しかつた自衞隊が、文人の「賢明」ならざる意地とその虚しさを理解出來ない筈は無い。
    松原正『我々だけの自衞隊』

 もちろん、ここには註が必要だ。母が、歴史的假名遣ひを使つてゐたから子も使ふといふのでは、私のやうに親も使つてゐなければ、使はなくても良いといふことになるからだ。さうではなく、松原氏の主眼は「それが正しいから使ふ」といふことになる。
 何らかの理由でその正しい假名遣ひが使用されなくなつたと言ふことは、歴史に斷絶があるといふことである。


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