言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語221

2007年11月25日 10時03分27秒 | 福田恆存

(承前)

ところで、この手紙の受取人である大久保忠利とはどういふ方かといふことにも少しく觸れておくと、東京外大を卒業後、新聞記者、東京都立大學教授となつた方であり、S.I.ハヤカワ著思考と行動における言語』の譯者として知られてゐる。言語學の門外漢である私には、その評價は詳らかではないが、金田一が私信を出すのであるから、國語改革には贊同的であるのは間違ひない。何より、『一億人の国語国字問題』といふ書名が略字であるし、本文は新假名遣ひであることが、そのことを示してゐる。内容は、明治以來の國語國字問題についてその概要をきれいに整理してあるが、國語にとつて何が大事なのかといふことにはついに觸れることはない。實證的な研究といふスタンスが研究者には何より大事なことかもしれないが、言葉の規範は過去にしかない、といふ當たり前の認識はもつと明確であるべきだらう。戰後の當用漢字と現代假名遣ひとに決定的に缺けてゐたものもそれである。

 さて、福田恆存の「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」は、『知性』の昭和三十一年七八月號に分載されたから、この手紙はその七月號を讀んだあとでのものである。

  私自身、この手紙を手書きしてみた。讀んだ時よりも一段と傳はつてきたのが、その意地のはり方である。言つてしまへば、負け惜しみの思ひが非常に強い。最後の「それで私は、私の論戦の終結を宣言しようと存じます」などといふのは、本來論文で書くものであるが、同じ主張の論者への私信といふ形で書くのは、同情を求めてのことなのかもしれない。しかも、私信を公表することに同意するのは、この文章をやはりこつそりと一般讀者にも(いや一般讀者ではなく、御同類の表音主義者に)讀んでもらつて、「我が勝利」を認めてほしいのであらう。理解してもらへる讀者からの同情を求める姿勢は、ありありであつた。しかしそれは犬の遠吠えである。

それにつけても、「たとい道理に合ったことを申しても率直に受取れない」といふのは、どういふ了見か。福田恆存の主張は全面的に間違つてゐると言つてゐたのに、いつの間にか「たとい道理に合ったことを申しても」では、内容には何も言へなくなつたので、言ひ方にいちやもんをつけることにしたといふことにも思へる。それが證據に、鬼の首をとつたかのやうに「千年前のつづり」の一件を言ひ續けるのは、それしか主張することがないからであらう。

  外國に「千年前のつづり」を保つてゐる國が一つもないからと言つて、國語の假名遣ひを改めることにならないことぐらゐ、小學生でも分かる。お年玉の習慣が世界にないから、やめませうと言つて納得する子供がゐないのをみれば、それは明らかであらう。福田恆存が言つた「本質音癡」とは言ひ得て妙である。

ちなみに『知性』の同年十月號には、「『かなづかい論争』に寄せられた読者の声」といふものが、編輯部によつてまとめられてゐる。その内容も極めて興味深く、當時の人人の樣子を知る上で重要だ。ありていに言へば福田恆存への批判の方が多いといふ事實は特に資料的價値が高い。まつたく孤獨な鬪ひをしてゐる福田の立場は明瞭である。詳しくは圖書館でも見てもらひたい。御住所を御知らせいただければコピーをお送りする。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 祝日には、旗を掲げよう | トップ | 福田恆存評論集間もなく出來... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿