言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存とドナルド・キーンとの往復書簡 その2

2023年07月26日 08時28分02秒 | 評論・評伝
 
(引用を続ける)
「常識である以上、背に腹は変へられない事態がくれば、いつでもそんな基準は捨てさります。自由といへば自由、放縦といへば放縦、しかし、かういふ混乱状態に、一般の民衆は『これは都合のいゝことだ』といつてゐるとは思へません。一見、罪の意識の欠如の裏で、何かものたりないものを感じてゐるのです。一種の空虚感といつてもいゝでせう。それは悪いことをしても、もう叱つてくれなくなつた老父を見て感じる若者の心細さみたいなものではないでせうか。」

 私たちの「現実」には、「混乱」しかない。しかし、その「混乱」は心理的なものであるので、外見を観るだけではそれが「混乱」であるやうには見えない。外国人が見た現実は、私たち日本人が見た現実とは異なるのである。
 伝統に根付いた固有の風習、生活感情と、西洋化した近代の考へ方、それとの付き合ひ方に不慣れで「混乱」をしてゐるはずなのに、そのことに私たち自身が気づいてゐない。
 憲法についても、性の同一性についても、軍隊についても、「常識」で考へれば、あれほど言挙げして学者や専門家の言葉で語らずともあるべき姿は明瞭なはずなのに、その「常識」がたいへんか細いものになつてしまつてゐるから、西洋の考へ方を慣れない手つきで語り出し、とんでもない事態を迎へるはめになる。それで、誰もが「何かものたいりないものを感じ」「一種の空虚感」を感じてしまふのである。

 神もゐない。罪の観念もない。そして、かつてはあつた共通の基盤としての全体感もなくなつてしまつた。
 頭の中は西洋の哲学やら法学やら経済学やら、あるいは科学も含めていいだらうか、さうした「近代合理主義」の用語でどんどん満たされていきながら、体の筋肉たる「伝統に根付いた固有の風習、生活感情」は細くなる一方だから、ちゃうど頭の大きい赤子のやうにバランスを欠いて転び続けるしかない。転んでは起き、起きては転び、を繰り返してゐるのが、私たちの近代の歴史であらう。
 それでも赤子は成長していくにつれ、体と頭のバランスは安定し、生活感情が近代主義を支配していけるのであらうが、私の直観で言へば、赤子のままのやうに見える。永遠の幼児化とでも言つたら良いのだらうか。
 職場を見ても、社会を見ても、いや自分自身を見ても、そもそも大人とはかういふ存在だらうかといふ思ひが募つてくる。
 理ばかりを主張して、体はその理を裏切つてゐるのに、それを見ようともしない。見えないのではない。見ようともしてゐない。
 さういふ「大人」が作る社会から、大人が生まれるだらうか。そんな思ひが日々を貫いていく。
 福田恆存は、「行くところまで行け」と今から35年ほど前に語つてゐた。そこには「行くところまで行け」ば気づくだらうといふ期待があつたはずだ。しかし、今はその期待すらない。
 
 いい時間を過ごせたらと思ふ。
 
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