言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

摩擦のない清潔な貧しさ

2010年08月10日 09時15分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

私の幸福論 (ちくま文庫) 私の幸福論 (ちくま文庫)
価格:¥ 672(税込)
発売日:1998-09
 福田恆存の『私の幸福論』を久しぶりに読み返した。最初に読んだのは、高木書房のもので、ハードカバーでエミリオ・グレコの「女の首」のデッサンが表紙に使はれてゐる。今は、ちくま文庫に入つてゐるので、簡単に手にすることができる。福田恆存のものは、今では文春文庫やちくま文庫や新潮文庫、そして麗澤大学出版会から評論集、文藝春秋から戯曲全集と随分新刊書が出てゐて、ありがたい。何がありがたいかと言へば、生徒にも勧めやすいといふことである。

 夏休みに『私の幸福論』を読ませることにした。『人間・この劇的なるもの』と選択を迷つたが、こちらはまだ早いと思ひ、諦めた。

 七月辺りから、ぼちぼち感想を言ひに生徒が寄つてきたが、その行為自体が本書に興味を寄せてゐる証拠であると一人合点して喜んでゐる。

 さて、表題は、本書の最後の章に出てくる言葉である。利己主義といふ「理想」を求めて生きる結果、人は孤独をかこつことになるが、その孤独から逃れるために更に利己主義を貫徹しようとして孤独になる。それは人が「快楽」を求めた結果であるのだ。そしてそれが、「摩擦のない清潔な貧しさ」であるといふ。青年は一人になりたがる、それは内省の好機とも言へる時期であつていたづらに否定するものでもないが、ますます内向きで閉鎖的になる、言はば自閉化する社会にあつては、いよいよ人間が物化してしまふのではないか。社会からの逃避、家族からの逃避、自己からの逃避=子ども手当ての要求、高齢者の所在不明、自殺者の増加、いづれもこの自閉化の表れではあるまいか。摩擦を避け、ひとりだけの清潔さを求め、それらが恥ずかしいことであることを知らない心の貧しさ、それが現代社会の病理である。

 もちろん、その社会の一員であることを棚に上げてゐても仕方がない。快楽主義にどつぷりと浸かつてゐることは明らかである。

 ただ病名を明らかにしてもらふだけでも救ひはある。治すのは各自の努力であるとしても、医者の診断はそれ自体が治療である。『私の幸福論』を読み返して、その正確な診断に感謝してゐる。

追記

今、高木書房のホームページを見たら、『私の幸福論』はまだ手に入るやうだ。ちくま文庫とはまた違つた味はひ(装丁)を楽しみたい方は、こちらで御注文ください。http://www2.ocn.ne.jp/~tkgsyobo/index.html

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2 コメント

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僕は良心の塊。 (6C)
2010-08-23 17:34:03
僕は良心の塊。
Parentsではありません。

また、ブログ、見させていただきます。
返信する
…生きろ。 (あしたか)
2010-08-27 18:02:04
…生きろ。
……
………そなたは美しい。
返信する

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