言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

志水宏吉『学力格差を克服する』を読む

2022年12月30日 15時32分58秒 | 評論・評伝
 
 今年は、学力をどのやうにして伸ばすかといふことについて考へた。
 もちろん、その際に重要になるのが「評価」である。学力が伸びたかどうかは、結局「評価」の問題に尽きる。
 つまりは、学力とは何かといふことを曖昧にしたまま、学力が伸びたかどうかといふ判断もできない。学力といふことの内実も、いかに伸ばすかといふ手段の実際も、この「評価」の問題なのである。
 
 今年一年間で読んだ本の中で、今後とも読み続けるべき書が、この『学力格差を克服する』といふ書である。
 著者は、大阪大学の大学院教授であつた志水宏吉氏である。本書に出会ふまで私は知らなかつたが(今思へば、苅谷剛彦氏の「関西調査」の関連でお名前が出来てきたかもしれない)、やはり先達がゐればもう少し早く知ることができたのにと悔やまれる。
 本書のテーマは、著者が明言されてゐるやうに、「いかに学力を保障するか」である。それは保証とは違ふ。「牛乳の品質は賞味期間によって保証される」が学力は保証はされない。つまり、結果が出てゐないからである。とは言へ何もしなくて良いかといふとさうではない。やはり「保障」が必要だ。著者の意味は、「すべての子どもがもつ、確かな学力を獲得する権利を実現されること」といふことである。
 少し美辞に傾きすぎてゐて私には抵抗があるが、それでも教育者はその気概を持つべきだといふことでは納得がいく。
 著者は、貴族主義「アリストクラシー」を打開すべき近代社会が、メリトクラシー(学歴主義)に行きすぎ、その結果資本主義社会の勝利者であるエリートを親に持つ子供たちが勝ち続ける「ペアレントクラシー」になつてゐること警戒してゐる。とは言へ、凡百の民主的教育社会学者のやうなメリトクラシー批判を声高に叫んでゐるわけではない。
 そこが学力保障主義者の面目躍如で、メリトクラシーを幸福的に実現しようとするのである。それを著者は「メリトクラシーを泳ぎ抜く」と表現してゐる(比喩がたいへんうまい。それは対象となる事象の本質をつかまへてゐるからだと、失礼ながら思ふ)。
 ちなみに、比喩の卓抜さについて言へば、「学力の樹木」(69頁)や「『力のある学校』のスクールバス・モデル」(173頁)は、じつに素晴らしい。これはもつと広く知られてよい(と失礼ながら思ふ)。
 
 ただ望蜀の願ひを言へば、民主主義といふものへの過大な評価が気になる。確かにアリストクラシーの対義語はデモクラシーであり、近代社会はそれを目指すべきといふのは分かるが、後期近代に入り、デモクラシーがオクロクラシーに堕してゐる現状を見ると、デモス(大衆)の支配とは恐ろしいものであり、それを改善するのはデモクラシー的教育だといふのは、再帰的と言ふより語義矛盾になつてしまふのではないかと思ふ。
 学力の格差を克服することは大事であるが、全体のウエルビーイング(福祉)を考へる上では、教養人の覚悟もまた必要であると感じる。ノーブレスオブリージュを現代の日本人が恥ずかしがらずには言へないところに、近代日本の教育に欠陥があるやうに思はれる。

 とは言へ、本書は何度も読むべき本である。
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