言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

橘玲『バカと無知』を読む

2022年12月29日 11時47分32秒 | 評論・評伝
 
 
 前回紹介した『バカを治す』の著者適菜収氏的に言へば、B層の人々が今日信じ込んでゐる「正義」の嘘を暴いた書である。
 ご存じ『言ってはいけない』の著者による第三弾。
 バカは無知とは違ふ。自分のことをバカとは気づかないのがバカで、「自分の能力についての客観的な事実を提示されても、バカはその事実を正しく理解できないので(なぜならバカだから)自分の評価を修正しないばかりか、ますます自分の能力に自信をもつようになる。まさに『バカにつける薬はない』のだ」。
 つまり、原理的にバカは自分のことをバカと認識できないので、知らないでバカなことをしたり、信じたりしてゐるのはバカではなく、無知である。
 となると、この本の著者も私自身も自分自身が信じてゐることを間違つてゐると、誰かから「客観的」に提示されても、それを否定できないとなれば、誰もがバカである。著者もそのことは自覚してゐるやうだ。だから、バカは死んでも治らないのである。適菜氏は、バカにならないためには古典を読めと言つてゐるが、橘氏はもつと残酷である。なぜなら皆バカであることに気付けないからだ。
 この著者は、徹頭徹尾「唯物的」である。このことは著者の「真実」であるから、今後とも変はらないだらう。唯物的といふことには、私は信を置かない。また、著者は英語が堪能のやうで、最新の脳科学の研究を踏まへて論述し、その分野の真理が最善の「知」として提示されてゐる。B層に属する人は単純に騙されてしまふのではないかと心配になる。
 私は唯物論には反対なので、この世界とは異なるもう一つの世界があつて、それが交はる交点に「私」が存在してゐると考へてゐるので、脳=現実界の軸移動で認識できる「真実」は「確からしさ」としては中途半端といふやうに思ふ。
 それでも、ずゐぶん面白かつた。
 その一つが、トラウマ理論の眉唾ぶりである。最新の脳科学では特定の記憶をピンポイントで消去できるテクノロジーが開発されつつあるといふ。さうなれば、トラウマになつた記憶を消せば「症状」は解消されるはずである。ところが、それで解消されない状況になれば、「トラウマ理論」が嘘といふことになる。もちろん、現実に「症状」はあるわけだから、それに正確に対処すべきである。「PTSDが文脈に依存する精神疾患である」といふ指摘は鋭いと思ふ。そしてその「文脈」とは、「時代や社会が決めている」といふこともその通りであると思ふ。

 もう一つが、現在のSNS社会への指摘である。自分のことを絶対的な善と信じ、敵対する集団に罵詈雑言を浴びせる人々がゐる。これを「アイデンティティ政治」と呼ぶらしいが、それに対して著者はかう言ふ。「当然のことながら、ふつうのひとたちはこんなことにはかかわろうとしない。人生に投入できる資源は有限で、その大半は仕事や家族・恋人との関係に使われるからだ。ネットニュースに頻繁にコメントするのは昼間からワイドショーを見ているひとたちだが、それは平均とはかなり異質な母集団だ」。
 まつたくその通りである。ネットニュースのコメントだけでアイデンティティを形成してゐる人たちはまさに異常な人々である。それを拾ひ上げて「世論」だと思ふマスコミが大勢になるとすれば、この母集団はかなり大きくなる。彼らが現代の社会の表層を覆つてしまへば、もはや異質や異常ではない。彼らをバカと言へば、きつと白眼視されるだけであらう。
 バカとバカと言へない社会は、無間地獄である。
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