言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語272

2008年06月01日 20時48分33秒 | 福田恆存

(承前)

 前囘取上げた梅棹氏の文章は、驚くほど低俗な、氏の言葉を借りて言へば「べらぼうな言語」論である。同書の別のところで、氏は「日本の近代化などというお題目は、うっかりするとダブダブの米軍はらいさげの中古品の服みたいなことになる。身にあわぬからといって、からだのかっこうを批判するだけではこまる。主語のない日本語の文章を非論理的であると『反省』してみた人たちのように」(『同書』一九六頁)などと書いて、日本語の「近代化」(ここでは、本來主語といふ文の成文などない、いや必要のない日本語に、近代化の手本としての歐米の言語である英語を手本とすることによつて、主語をつけろといふことになつた「近代主義的反省」のこと)を批判してゐるにもかかはらず、その十頁後では、このやうに「近代文明語」としての日本語の不十分を「べらぼう」などと言つて非難するのである。

もちろん、この文章は講演録であるから、緻密な議論ではないといふことは言つておく必要もあらう。しかし、それでも「この要約はきわめて粗雑なもので、とうていわたしの意をつくしていないので、ここに再録するにあたって全面的にかきなおした」(一九七頁)とまで言ふのであるから、これは講演録である故の「べらぼう」を最早言ひ譯にはできまい。本質的に氏の日本語觀が「べらぼう」なのである。いや國語といふ言葉にたいする觀點が目茶苦茶であるのなら、もはや氏の發想や文章全體が「べらぼう」であると言つても良いだらう。

  また「日本語には確立した文法もなく、文章のかきかたにしても、きまった正書法がありません」などと言ふが、正書法を以て近代文明語であるとする考へ方が、今日では十分に「近代的」ではない。近代とは、もちろん普遍的な性格のものであるが、それは文明における變革運動である。しかし、言語は文化なのであつて、より固有な性格を持つてゐる。私たちは、スーツは着てゐるが、電話越しに相手に謝罪するときは頭を下げてゐる。電話は文明の利器であるが、謝罪のスタイルは文化である。相手に見えようが見えまいが、頭を下げてしまふのである。それが文化である。生き方に結びついた文化を、文明で否定することはできない。

  かうした文明と文化との違ひについては、山崎正和氏の論に十二分に示唆を與へられた。それを踏まへて敷衍すれば次のやうになる。

文明はより普遍的であり、文化はより民族固有性を持つてゐると考へられる。たとへば、自動車社會への移行は文明的現象であるが、親を敬ひ子が親に從ふことを以て「孝」とし、生きる道としてふさはしいと考へるのは、文化である。その意味で、文明は生活の仕方(living form)を、文化は生き方(life style)を表してゐると言へる。

  そして、言葉はその文化そのものであつて、普遍性を追求されない。もちろん、表現と理解、意味と語の用ゐ方、など言語論として、學問論として扱へる部分においては、ひろく「言語」として普遍的に語ることができる側面もあるであらう。しかしながら、その國の言葉の表現の仕方について、「近代文明語」であるかないかなどといふことは、およそ非近代的な考へである。

  そこには、英語などアルファベットといふ表音文字しか持たない國語を以て近代文明語であるとする、きはめて前近代主義的西洋崇拜の言語觀がある。

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