言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語275

2008年06月16日 13時12分44秒 | 福田恆存

(承前)

主語・述語を必ず必要とする歐米語にたいして、述語だけの日本語は「非論理的」であるとする人人にたいしては、「すべてのことがらを主語・述語のかたちにととのえなければ表現できないというのは、まったく英語やフランス語に特有の言語的なくせにすぎないのである」と斷言し、「英語、フランス語が論理的で日本語が非論理的であることを證明するのは、きわめて困難なようにおもわれる」と、梅棹氏は至極まつたうな發言をしてゐる(『日本語と日本文明』二二頁)。

  そのうへ、かうも言つてゐる。

「近代社会の複雑な機構のすべてを、ひとつの言語の体系の内部で完全に運営できるような言語は、世界にもそうたくさんはない。日本語は、そのような少数の言語のひとつである。

 現に日本には、世界でもっとも高度に発達した文明社会のひとつが存在し、しかもそこでは、純粋に、おどろくべき程度にまで純粋に、文明機構のすべてが日本語で運転されているのである。」

(『同書』四九頁)

 しかし、近代化にあたつての評價で、福田恆存と決定的に違ふことがある。それは漢語をめぐつての發言においてである。福田は、明治期に作られた漢語=ネオ漢語についてやはり嚴しく批判する。それはこれまでにも述べた。そこまでは共通である。

 

「問題はしかし、そのときに、この膨大な近代化のための用語集を、ほとんど漢字のくみあわせという方法でつくり、しかもそれを字音でよんだという点にあった。この字音語のはんらんは、その後の日本の社会、日本の学術の発達に、かなり深刻な影響をおよぼすようになる。近代用語集が文明の生活にとって、絶対的な意味をもつだけに、日本文明はこの期におよんで漢字とぬきさしならぬ関係をむすんでしまったのであった。これはいまからみれば、手いたい失敗であった、といわざるをえないであろう。あのときに、明治の初期に、いっさいの近代用語集をかながきでつくっていてくれたら、現代日本語のなやみの大部分は、もともと発生することもなかったはずであるのに。」

(『同書』五二、五三頁)

  福田恆存との共通性を示した、この引用文の中にも既に相違點がある。「字音語」といふものが問題であるといふのは、まつたく分からない。字音語を排除して、漢字をすべて訓讀みせよといふことなのか。今引用した部分の直後に、「キッテ」「ハガキ」「カワセ」などを擧げてゐるが、「キッテ」は良くて、「郵便」は駄目といふのはどういふことなのにはかに諒解することは困難である。「郵」とは音讀みのみある漢字であるが、無理に訓讀みすれば「うまつぎば」である。「便」は「たより」であるから、「ユウビン」は「たよりつぎば」とでも言ふのか。同じやうに、「カワセ」は良くて「貿易」は駄目といふもの分からない。いつたに、合理的に考へようといふ姿勢が見られないのである。

  ネオ漢語の問題は、それが字音語か否かなどといふことに本質があるのではない。その意味を正確に理解して、正しく使ふといふ意識がないことが問題なのである。

  今引用した文中に、梅棹氏は「はんらん」などと「かながき」するが、これで「現代日本語のなやみの大部分は、もともと発生することもなかったはず」などと眞劍に考へてゐるのだとしたら、それの方が深刻である。言語は道具であるといふことを全く疑ひもしないその言語觀では、ネオ漢語の問題は全く克服できない。

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