言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語277

2008年06月26日 07時19分24秒 | 福田恆存

(承前)

  近代化とは、西洋文明の移入そのものを意味するといふよりは、西洋文明の移入の仕方(如何に受け容れたのか)において表れてくるものである。

  考へてみれば、そもそも西洋における「近代化」自體、どこからかやつて來たものではなく、ルネッサンスと宗教改革による自我の發見と、産業革命による社會や經濟の仕組の大變革によつてなされたきたのである。もちろん、支那文明がイスラム圈に傳はり、さらにそれらの複合的な文明が西洋に傳はつたといふ側面もないことはない、しかし、たとへさういふ面があるとしても、産業革命はイギリスにおいて始まつたといふことは否定できない事實である。そして、ヨーロッパ大陸において五百年の長きにわたる年月を經てなされたものであるといふことも事實である。

さうであれば、それを受け繼ぐ他地域においては、形式を尊重しつつ、近代化を生み出した精神をその都度確認し、理解していく必要があるはずだ。その意味で、私たちの近代化は移入に懸命になるあまり確認と理解の作業を怠りすぎた。その意味で拙速であつたといふことへの批判は免れられないし、少なくともその急拵への缺點については自覺的であるべきだ。今日でも、その自覺は乏しいと言はざるを得ない。言はゆるインターネットをきつかけとする犯罪などは、機械的な技術革新を急ぐあまり、さうした新しい技術を統御する精神の技術の養成を蔑ろにしてきたつけである。和魂はとつくに洋才に、食ひ千切られてゐるのである。

  漱石が書いた『それから』の嘆きは、まつたく正統なものである。

「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない國だ。それでゐて、一等國を以て任じてゐる。さうして、むりにも一等國の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向つて、奧行を削つて、一等國大の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲慘なものだ。牛と竸爭をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我我個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の壓迫を受けてゐる國民は、頭に餘裕がないから、碌な仕事は出來ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神經衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲勞してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身體の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に來てゐる。日本國中何所を見渡したつて、輝いてる斷面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。」

  これが書かれたのは、明治四十二年である。

  どうだらう。新聞を擴げてみても、カタカナ語は氾濫してゐる。「美しい國へ」を標榜した前首相の最重要課題が教育問題と共に「再チャレンジ」支援策であつたが、何だらうこの「再チャレンジ」とは。ハローワークだ、ホワイトカラー・イグゼンプションだ、まつたく日本語になつてゐない。その内容はひとまづ措くとしても、職業といふものを私たちはどう考へてきたのか、そしてほとんどの國民は今もどう考へてゐるのかといふことを一顧だにしない命名である。

  言葉が文化の基本であるとすれば、それを顧みることが急務である。

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