(承前)
私たちの國語を取り卷く状況は、前囘見た通り悲慘な状況であるが、それにはこれ以上は觸れない。考へたいのは、梅棹氏が考へる「國語問題」である。
引き續き、引用をする。
「日本にとって悲劇的であったのは、この漢字という魅力あふれる文字体系が、中国語という日本語とは構造的にまったくことなる言語と、かきあらわすために発達したものであったことである。よくしられているように、中国語はもともとつよい単音節的名性質をもつ。その単音節に漢字一字が対応しているのである。そこでは、漢字の列は音声の列とみごとに対応する。そしてそれは、意味の列でもある。ところが日本語には、そういう性質はない。日本語は、基本的に多音節的である。漢字は日本語においては、いっぽうでは万葉仮名にみられるように表音文字的にもちいられ、いっぽうでは表音文字として日本語の単語にあてはめられた。しかも日本語における漢字には、もとの中国語の発音にちかい音よみと、日本語の意味にあてた訓よみと二とおりのよみかたが発生したのである。その結果、おなじ文字がいくとおりにもよまれるという事態が発生した。
(中略)
もともと中国語をかきあらわすために発達した漢字というシステムを、言語構造のまったくことなる日本語に適用したものだから、こういうことになった。それは日本語に対して、やっかいきわまる荷物を背おわせたのである。しかし、日本人はいまだにこの漢字という文字体系の魅力にとりつかれたまま、この荷物をすてさることはできないでいる。漢字文明文明圏の諸民族のなかでも、ひときわめんどうな課題を背おっているのが、日本語である。
日本語の表記法は、どうなってゆくであろうか。」
(『日本語と日本文明』六一頁~六二頁)
隨分と長い引用になつてしまつた。が、梅棹氏が私たちの國語をどう考へてゐるかが分かる部分なので躊躇せずに引いた。
まづ最後のところの「漢字文明圈」といふことについて。さういふものが存在するのか否かは、それぞれの立場で考へても良いだらう。私自身は本稿の最初のところで津田左右吉や山崎正和などを參考にしながら、明確に否定した。しかし、梅棹氏がそれをあるとするなら、まあそれで良い。しかし、さう考へる理由を説明する必要はある。民俗學や比較文明論が御專門であるのなら、かうした先入觀をまづ疑つてみるべきで、漢字文明なるものがあつても、これは中國國内においての話であつて、日本や朝鮮半島では少なくともそれはないのではないか――さう疑つてみるのが學問的な誠實さである。文法は全く異るし、漢字の字形は中國、日本、臺灣では異つてゐる。それどころか、現在の韓半島では全く使はれなくなつてしまつた。
したがつて、日本語が「ひときわめんどうな課題をせおっている」といふことの根據も薄らいで來てゐるのである。
そして、この梅棹氏の認識によつて、日本語の表記の問題とされてゐることについても、疑問を持たざるを得ない。