■海南島で 2 沙土の犠牲者
澄邁県橋頭鎮沙土〈聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村、昌堂村、北山村、福留村、欽帝村、上帝村、文旭村、小美良村、木春村、扶里村)の聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」と書かれた大きな建てられている。これは、橋頭鎮人民政府が、2005年8月15日に建てたもので、その碑文の全文は、つぎのとおりである(原文は縦書。漢字は日本で使われているものに変えた)。
槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
橋頭鎮人民政府
公元二〇〇五年八月一五日
ここには、“1941年閏6月12日(普通暦8月4日)未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれている。しかし、犠牲者の名は記されていない。
わたしたちが、沙土をはじめて訪ねたのは、2008年10月12日だった。
この日、聖眼村で「幸存者」の温国興さん(八一歳)、温国照さん(七八歳)、温国武さん(八二歳)に話しを聞かせてもらった。別れ際に、温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話した。
その後、わたしたちは、10回沙土を訪ねた(このブログの2008年10月19日・12月4日~12月7日の「“沙土惨案”」1~5、2009年6月26日~6月28日の「海南島 2009年6月」6~8、2011年3月22日~3月28日の「沙土の欽帝村で」1~6などをみてください)。
10回目は、ことし11月2日だった。
このとき、しばらくぶりで聖眼村を訪ねたわたしたちに、温国興さんは、沙土で虐殺された人たちの名簿を見せてくれた。5年前から他の村人にも呼びかけてつくったものだという。
それは、聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村の犠牲者の名、性別、年齢を記したものだった(昌表村の名簿には、日本兵が村人を殺害した方法が個別に記録されている)。
そこに記されている聖眼村の犠牲者は温光清さん(男、54歳)、光清婢さん(女、50歳)、温那厚さん(男、10歳)、温那芝さん(男、8歳)、温那番さん(男、6歳)、温光成さん(男、48歳)、光城婢さん(女、46歳)ら197人、文旭村の犠牲者は温明道さん(男、61歳)、明道婢さん(女、58歳)、温家徳さん(男、8歳)、温家樟さん(男、8歳)、温太朗さん(男52歳)、温太財さん(男、51歳)、温家成さん(男、21歳)さんら20人、昌表村の犠牲者は符顕明さん(男、30歳。銃剣殺)、符文瑞さん(男、10歳。銃剣殺)、符文苑さん(男、8歳。銃剣殺)、符亜昌(女、20歳。銃殺)符亜昌さんの二男(5歳。銃殺)、符亜昌さんの三男(3歳、銃殺)、符亜帝さん(女、18歳)、謝道成さん(20歳。刀殺)ら35人、美梅村の犠牲者は李華開さん(男、38歳)、李発國さん(男、18歳)、李華順さん(男、32歳)、李錦輝さん(男、30歳)、李華英さん(男、21歳)、林詩婢さん(女、20歳)ら43人、那南村の犠牲者は李太道さん(男、74歳)、太山婢さん(女、42歳)、李華美さん(男、18歳)、李華独さん(男、2歳)、李四姫さん(女、8歳)、符大烈さん(男、42歳)符明善さん(男、14歳)ら32人であった。
佐藤正人
澄邁県橋頭鎮沙土〈聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村、昌堂村、北山村、福留村、欽帝村、上帝村、文旭村、小美良村、木春村、扶里村)の聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」と書かれた大きな建てられている。これは、橋頭鎮人民政府が、2005年8月15日に建てたもので、その碑文の全文は、つぎのとおりである(原文は縦書。漢字は日本で使われているものに変えた)。
槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
橋頭鎮人民政府
公元二〇〇五年八月一五日
ここには、“1941年閏6月12日(普通暦8月4日)未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれている。しかし、犠牲者の名は記されていない。
わたしたちが、沙土をはじめて訪ねたのは、2008年10月12日だった。
この日、聖眼村で「幸存者」の温国興さん(八一歳)、温国照さん(七八歳)、温国武さん(八二歳)に話しを聞かせてもらった。別れ際に、温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話した。
その後、わたしたちは、10回沙土を訪ねた(このブログの2008年10月19日・12月4日~12月7日の「“沙土惨案”」1~5、2009年6月26日~6月28日の「海南島 2009年6月」6~8、2011年3月22日~3月28日の「沙土の欽帝村で」1~6などをみてください)。
10回目は、ことし11月2日だった。
このとき、しばらくぶりで聖眼村を訪ねたわたしたちに、温国興さんは、沙土で虐殺された人たちの名簿を見せてくれた。5年前から他の村人にも呼びかけてつくったものだという。
それは、聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村の犠牲者の名、性別、年齢を記したものだった(昌表村の名簿には、日本兵が村人を殺害した方法が個別に記録されている)。
そこに記されている聖眼村の犠牲者は温光清さん(男、54歳)、光清婢さん(女、50歳)、温那厚さん(男、10歳)、温那芝さん(男、8歳)、温那番さん(男、6歳)、温光成さん(男、48歳)、光城婢さん(女、46歳)ら197人、文旭村の犠牲者は温明道さん(男、61歳)、明道婢さん(女、58歳)、温家徳さん(男、8歳)、温家樟さん(男、8歳)、温太朗さん(男52歳)、温太財さん(男、51歳)、温家成さん(男、21歳)さんら20人、昌表村の犠牲者は符顕明さん(男、30歳。銃剣殺)、符文瑞さん(男、10歳。銃剣殺)、符文苑さん(男、8歳。銃剣殺)、符亜昌(女、20歳。銃殺)符亜昌さんの二男(5歳。銃殺)、符亜昌さんの三男(3歳、銃殺)、符亜帝さん(女、18歳)、謝道成さん(20歳。刀殺)ら35人、美梅村の犠牲者は李華開さん(男、38歳)、李発國さん(男、18歳)、李華順さん(男、32歳)、李錦輝さん(男、30歳)、李華英さん(男、21歳)、林詩婢さん(女、20歳)ら43人、那南村の犠牲者は李太道さん(男、74歳)、太山婢さん(女、42歳)、李華美さん(男、18歳)、李華独さん(男、2歳)、李四姫さん(女、8歳)、符大烈さん(男、42歳)符明善さん(男、14歳)ら32人であった。
佐藤正人