三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 6

2013年12月03日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で 3 常樹村の犠牲者 
 澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』第10輯(日軍侵澄暴行実録、1995年?)に掲載されている王明恩「国恨家仇怎能忘 記侵瓊日軍占領加楽峒的罪行」に、
   「1941年6月11日、日軍飛行機炸常樹村、炸毀民房15間、炸死農民6人、受傷1人、炸死家
   畜4隻……」(30頁)、
   「従1940年4月至1945年8月的5年、加楽峒共殺死無辜農民889人、平均毎村被殺死10・2 
   人。“重災区”是常樹村殺死256人、北柳村被殺死41人、加塘村遭殺24人、加応村殺死21
   人、加志村殺死20人……」(33頁)、
   「日軍占据加楽期間、任意下村搶劫農民財産、随便抓人作押、勒索銭財。擄掠最突出的
   有:北柳村搶劫家畜223頭、勒索光洋13700元;……常樹村遭劫耕牛1571頭、勒索光洋
   12543元;……」(34頁)。
と書かれている。

 1940年4月から1945年8月までの5年間に村人256人が殺されたと書かれている加楽鎮常樹を、わたしたちは、はじめて2012年11月7日に訪ねた。
 王汀邦さん(91歳)は、つぎのように話した。
   “はじめ、村が爆撃された。そのあと、日本軍が何度も村を襲った。この村が国民党と共産
   党の拠点だったからだ。
    日本兵のなかには台湾人もいた。
    日本軍の占領中は、生活が苦しかった。若い女性が日本兵に暴行された。
 王川法さん(1933年生)は、つぎのように話した。
   “日本軍が2回目に村を襲ってきたとき、父が殺された。1942年12月28日だった。わたしは9
   歳だった。
    わたしは、父が殺されるところを見た。
    2人の日本兵が、父の腕を両側からひっぱり、からだの両側から銃剣を突き刺した。父の
   名は、王澄禄。40歳だった。
    石で殴られて殺された村人もたくさんいた。
    日本兵がいまいたら、殺してやりたい。ミサイルで日本を攻撃したい気持ちだ。
    わたしの家は、父母、兄、わたしの4人家族だった。姉がいたが、嫁にいっていた。兄は15
   歳だった”。
 わたしたちが、王川法さんから話を聞いているあいだ、そばでずうっと座っている女性がいました。
 村人の1人が、“日本軍が村を襲ってきた1942年12月28日は、その女性の結婚式の日だった。その日の朝、日本兵に強姦され、そのあと精神を病んでしまった”と静かに話した。
 村人たちみんなから、その女性がいたわれていることが、わたしたちに強く伝わってきた。
 別れ際に、王川法さんは、“この村で殺された人たちの名は、記録されていない。これから記録していきたい”と話した。

 その4か月半後、ことし(2013年)3月31日に、わたしたちは、常樹村を再訪した。
 王川法さんは、日本兵に殺害された常樹村の村人の名簿をみせてくれた。
 そのあと、王川法さんは、父が殺された場所に案内してくれた。そこは、王川法さんの家の近くの四つ角だった。大きな石があった。その石を王川法さんは黙って指さした。
                                        佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする