三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 8

2013年12月25日 | 個人史・地域史・世界史
■四 アイヌモシリ植民地化以後の日本近現代史の総括を
 日本は、侵略戦争のさなかに、中国人や朝鮮人を強制連行し強制労働させた。その事実を明らかにし、その歴史的意味を考えようとする各地の民衆の最初の交流集会が一九九〇年に名古屋で開かれ、以後毎年場所を変え、その地域の有志が実行委員会を形成して開催されている。
 一九九七年の八回目の集会は、島根県と鳥取県の有志が実行委員会を組織して七月に松江でひらかれたが、この集会で、はじめて、「近代日本100年と他民族侵略」(註22)と題する分科会が設定された。この分科会の報告者のひとり深田哲士は、アイヌモシリ侵略にかんしてこうのべている。
   「この地に私達日本人が大挙して押しかけ、その土地と資源と文化と言葉を奪って現在に
   到っています。
    これは朝鮮・中国その他アジア各地で日本が行った侵略と全く同質の侵略であり、百年
   後の今日でもその状態が継続しているという意味で、より重大な問題です」(註23)。

 アイヌモシリ植民地化を日本近現代史の起点として日本の侵略史を総体として把握しようとする日本の民衆が、交流をつよめ、民衆の歴史研究を深化させていくならば、アイヌモシリ植民地化新法の社会的根拠を崩していくことができるのではないか。
 アイヌモシリ植民地化一二八年後に、日本民衆はアイヌモシリにたいする新たな植民地化新法の制定を許した。日本人の歴史意識の変革なしには、日本のアイヌモシリ植民地支配をおわらせることはできない。
 アイヌモシリが日本の植民地とされてから一〇年後、一八七九年に琉球王国が日本の植民地とされ、沖縄県と名づけられた。その一六年後の一八九五に台湾が、そしてその一〇年後の一九〇五年に独島(註24)とサハリン南部が、さらにその五年後の一九一〇年に朝鮮が日本の植民地とされた。
 だが、これまで朝鮮の近現代史を研究する日本人は、日本のアイヌモシリ植民地化の歴史、琉球王国植民地化の歴史をとらえようとする姿勢が弱かったのではないか。
 一九四五年に、ミクロネシア、台湾、朝鮮、中国東北部……は、日本の植民地支配から解放された。だが、アイヌモシリは解放されず、かつての琉球王国はUSAの植民地とされ、一九七二年にふたたび日本に「復帰」した。
 現在すすめられている「北方領土返還」策動は、ロシア支配下のアイヌモシリを「返還」させて国民国家日本の領土とするという国民的民族差別運動である。
 いま、国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化の歴史的過程を総体として把握する方法を構築することは、朝鮮近現代史研究者にとっても重要な課題となっているのではないか。
                                       一九九七年七月

 註22 「近代日本一〇〇年」という時間的枠組みでは、いまから約一〇〇年前の台湾植民地
   化以後のことを主要に分析することになってしまうので、この分科会の名はその内容に
   ふさわしく改められなければならないが、朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働を考えよ
   うとする民衆の集会で、このような分科会が設定された意味はおおきい。  
 註23 交流集会山陰実行委員会編刊『第八回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える
   全国交流集会 in 松江』一九九七年、二八頁。 
 註24 佐藤正人「国民国家日本의  独島占領」(国民国家日本の独島占領)」、国際教科書
   研究所編『世界化時代와  歴史学과  歴史教科書(第七次国際歴史教科書学術会議総
   合報告書)』一九九六年、参照。
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