二 アイヌの「平民」化 2
一八七一年五月二二日(旧暦四月四日)に、「維新政府」は、戸籍法を布告した。
この法令は、「全国人民ノ保護」を口実とし、「人民」のすべてを住居地にむすびつけて把握しようとするものであった。
その第二則では、「臣民一般」は「華族士族卒族祠官僧侶平民迄ヲ云」とされ、その第三二則では、「等」の戸籍を「平民」の戸籍と別個にすることにされており、「臣民」のなかに「等」はふくめられていなかった。
戸籍法布告の四か月あまりのち、一〇月一二日(旧暦八月二八日)に、「維新政府」は、「等ノ称」を廃止し、被差別民の「身分職業」を「平民同様」とするという「布告」(「賎称廃止令」)をだした。この法令によって、「等」が「平民」とされ、「臣民」のなかにふくめられた。
太政官が「賎称廃止令」を布告したのは、一八七一年の旧暦八月二八日であったが、この年旧暦八月付で、「開拓使」は、「戸籍法則拾七ヶ条」をだした。そこでは、
「ノ事向後其在所寄留ノ戸長ニテ取調万事平民同様ノ例ヲ以テ可取計事」(第拾
参則)、
「乞食見当リ候ハヽ其地ニ留置戸長其生国身分浮浪ス次第等具ニ詰問書取ヲ以テ
速ニ可届出……」(第拾四則)
とされていた(註8)。
「賎称廃止令」(被差別民の「平民」化)の政治目的のひとつは、「臣民」のなかに「等」をふくめ、統一的に「全国人民」を把握し管理支配するための基礎台帳を作成することであった。「賎称廃止令」は、被差別民を解放するのではなく、被差別民を「臣民」すなわち天皇の民とし、天皇制を確立・強化するための法令であった。
一八七二年(「壬申」年)に、「維新政府」の地方機関は、いっせいに戸籍編成をはじめた。
この年、東京の「開拓使仮学校」に、アイヌの青年が「留学」させられ、アイヌにたいする「同化」教育がはじめられた。このとき「開拓使」は、六月二三日付で、
「元来北海道土人ハ容貌言語全ク殊ニシテ風俗陋醜ヲ免レス……大凡百人程出京為致
度目的を以て先つ男女弐拾七名差登せ少壮は仮学校にて読書習字等修業為致……」
という文書をだしている(註9)。
一八七三年ころから「開拓使」は、アイヌに日本戸籍を強制し、「壬申戸籍」にアイヌを日本の「平民」として登録しはじめた(註10)。
アイヌにとって日本の「平民」とされること(日本人戸籍の強制←「アイヌ人別帳」)は、天皇(制)をおしつけられ、民族の文化・言語をうばわれることであった。日本人への「同化」を強制されることであった。被差別民にとっての「解放令」は、アイヌ民族にとっては「エスノサイド令」であった。
「維新政府」は、被差別民とアイヌをともに「平民」として日本の戸籍に登録することにしたが、そのさい「等」という賎称は廃止したが、アイヌにたいする呼称は「旧蝦夷人」「古民」「土人」「旧土人」などとしていた。
註8 『一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、一九九頁。原書表題は
「元号」使用。
註9 編輯課編『一八七二年、七三年 開拓使公文鈔録』一八八二年、一四五頁。原書表題
は「元号」使用。
註10 大蔵省が一八八五年にだした『開拓使事業報告』第一編には、「蝦夷ト雖モ斉ク国民タ
ルヲ以テ戸籍編制ノ初メ華夷ヲ別タス」と書かれている(六〇〇頁)。
海保嶺夫は、一八七一年に「[アイヌ民族を]戸籍上平民へ編入する布達」がだされた
といい(海保嶺夫「北海道の「開拓」と経営」、『日本歴史16 近代 3』岩波書店、一九七
六年、一九〇頁)、海保洋子は、「一八七一年四月の戸籍法公布の際」に「アイヌ民族を
「平民」に編入すべき旨が布達されている」と言っている(海保洋子『近代北方史――アイ
ヌ民族と女性と』三一書房、一九九二年、八六頁)。海保洋子の言うとおりなら、「維新政
府」は、「等」の「身分職業」を「平民同様」とするとした「賎称廃止令」の公布
以前に、アイヌを「平民」に「編入」するとしたことになる。だが、実際には、そのような
「布達」は、『太政官日誌』にも『法令全書』にも「開拓使」にかかわるいかなる布令集に
も掲載されていない。
この実在しない「布達」にかんし、林善茂は、
「1871年4月4日、戸籍法が公布になり、これにともなう戸籍調査の際、アイヌは平
民籍に編入すべき旨、北海道全域に布達になった。同年8月28日、の称が
廃止されたがら同様、「化外の民」扱いだったアイヌも、ようやく戸籍をもつように
なる」
と、悪質な表現でデタラメを書き(北海道新聞社編刊『北海道大百科事典』一九八一年、
「アイヌの戸籍編入」の項)、榎森進は、
「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布
達し[た]」
といい(榎森進『アイヌの歴史ーー北海道の人びと(2)』三省堂、一九八七年、一〇九頁)、
さらには、
「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし(大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類
聚』上編)、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布達し[た]」
と書いている(榎森進「「旧土人保護法」はアイヌを保護したか」、『日本近代史の虚像
と実像』1、大月書店、一九九〇年、一四三頁)。だが、ここでわざわざ榎森が依拠した
資料として示している『開拓使事業報告附録布令類聚』(一八八五年)には、上編にも
下編にも、そのような「布達」は掲載されていない。
一九九五年五月に榎森進は、実在しない一八七一年の「布達」を根拠にして、アイヌモ
シリが日本の領土とされたのは一九七一年だと主張した(上村英明「先住民族と歴史のマ
インド・コントロール」、『解放教育』一九九五年一〇月号、明治図書、参照)。
関秀志・桑原真人は、
「一八七一年に戸籍法が制定されると、開拓使はアイヌ民族を平民に編入すべき旨
を布達し、その後、数年の間にアイヌの戸籍が整備されて日本国民とされ……」
と書き(北の生活文庫企画編集会議編『北海道民のなりたち』北海道新聞社、一九九五
年、三九頁)、大塚和義は、
「一八七一年には、アイヌの人びとの意志を尊重しないで、勝手に「日本国民」とし
て戸籍に編入して、同化をしいた」
と説明し(大塚和義『アイヌ 海浜と水辺の民』新宿書房、一九九五年、一五七頁)、田
中彰は、
「一八七一年、開拓使が戸籍法公布に当たって、アイヌを・平民・に編入」
といい(田中彰・桑原真人『北海道開拓と移民』吉川弘文館、一九九六年、四三頁)、大
脇徳芳は、
「一八七一年、アイヌを平民籍に入れ、和人と同様の姓名を強要した」
と言っている(大脇徳芳「コタンを追われて 「北海道旧土人保護法」とアイヌ民族」、『北海
道の歴史 60話』三省堂、一九九六年、一七七頁)。
神奈川人権センター編刊『国際化時代の人権入門』(日高六郎監修、一九九六年)に
は、
「[明治新政府は]1871年には戸籍法を制定しアイヌを・平民・に編入」
と書かれており(一七七頁。この「入門書」では、侵略戦争を煽動した民族差別者松本
治一郎を、「「解放の父」と言われた松本治一郎」、「「解放の父」として尊敬を集め
ている」としている。金靜美『水平運動史研究――民族差別批判――』現代企画室、一
九九二年、参照)、花崎皋平も、
「一八七一年、戸籍法の公布とともに、アイヌは「平民」に編入され、「旧土人」と記載
される」
と書いている(花崎皋平「アイヌモシリの回復――日本の先住民族アイヌと日本国家の対
アイヌ政策――」、『差別と共生の社会学』〈『現代社会学』15〉岩波書店、一九九六年、
九七頁)。
このように、アイヌを「平民」とする「維新政府」の策動という基本問題にかんして、
長年にわたってあやまった記述がくりかえされてきた。
このようなあやまった記述の出所ははっきりしないが、一九四二年に、高倉新一郎が、
「開拓使は……、一八七一年四月戸籍法発布・戸籍調査の際、其地の土人を平民に
編入すべき旨を全道に布達[した]」(高倉新一郎『アイヌ政策史』日本評論社、四一八
頁。原文は「元号」使用)
と書いている。
一八七一年五月二二日(旧暦四月四日)に、「維新政府」は、戸籍法を布告した。
この法令は、「全国人民ノ保護」を口実とし、「人民」のすべてを住居地にむすびつけて把握しようとするものであった。
その第二則では、「臣民一般」は「華族士族卒族祠官僧侶平民迄ヲ云」とされ、その第三二則では、「等」の戸籍を「平民」の戸籍と別個にすることにされており、「臣民」のなかに「等」はふくめられていなかった。
戸籍法布告の四か月あまりのち、一〇月一二日(旧暦八月二八日)に、「維新政府」は、「等ノ称」を廃止し、被差別民の「身分職業」を「平民同様」とするという「布告」(「賎称廃止令」)をだした。この法令によって、「等」が「平民」とされ、「臣民」のなかにふくめられた。
太政官が「賎称廃止令」を布告したのは、一八七一年の旧暦八月二八日であったが、この年旧暦八月付で、「開拓使」は、「戸籍法則拾七ヶ条」をだした。そこでは、
「ノ事向後其在所寄留ノ戸長ニテ取調万事平民同様ノ例ヲ以テ可取計事」(第拾
参則)、
「乞食見当リ候ハヽ其地ニ留置戸長其生国身分浮浪ス次第等具ニ詰問書取ヲ以テ
速ニ可届出……」(第拾四則)
とされていた(註8)。
「賎称廃止令」(被差別民の「平民」化)の政治目的のひとつは、「臣民」のなかに「等」をふくめ、統一的に「全国人民」を把握し管理支配するための基礎台帳を作成することであった。「賎称廃止令」は、被差別民を解放するのではなく、被差別民を「臣民」すなわち天皇の民とし、天皇制を確立・強化するための法令であった。
一八七二年(「壬申」年)に、「維新政府」の地方機関は、いっせいに戸籍編成をはじめた。
この年、東京の「開拓使仮学校」に、アイヌの青年が「留学」させられ、アイヌにたいする「同化」教育がはじめられた。このとき「開拓使」は、六月二三日付で、
「元来北海道土人ハ容貌言語全ク殊ニシテ風俗陋醜ヲ免レス……大凡百人程出京為致
度目的を以て先つ男女弐拾七名差登せ少壮は仮学校にて読書習字等修業為致……」
という文書をだしている(註9)。
一八七三年ころから「開拓使」は、アイヌに日本戸籍を強制し、「壬申戸籍」にアイヌを日本の「平民」として登録しはじめた(註10)。
アイヌにとって日本の「平民」とされること(日本人戸籍の強制←「アイヌ人別帳」)は、天皇(制)をおしつけられ、民族の文化・言語をうばわれることであった。日本人への「同化」を強制されることであった。被差別民にとっての「解放令」は、アイヌ民族にとっては「エスノサイド令」であった。
「維新政府」は、被差別民とアイヌをともに「平民」として日本の戸籍に登録することにしたが、そのさい「等」という賎称は廃止したが、アイヌにたいする呼称は「旧蝦夷人」「古民」「土人」「旧土人」などとしていた。
註8 『一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、一九九頁。原書表題は
「元号」使用。
註9 編輯課編『一八七二年、七三年 開拓使公文鈔録』一八八二年、一四五頁。原書表題
は「元号」使用。
註10 大蔵省が一八八五年にだした『開拓使事業報告』第一編には、「蝦夷ト雖モ斉ク国民タ
ルヲ以テ戸籍編制ノ初メ華夷ヲ別タス」と書かれている(六〇〇頁)。
海保嶺夫は、一八七一年に「[アイヌ民族を]戸籍上平民へ編入する布達」がだされた
といい(海保嶺夫「北海道の「開拓」と経営」、『日本歴史16 近代 3』岩波書店、一九七
六年、一九〇頁)、海保洋子は、「一八七一年四月の戸籍法公布の際」に「アイヌ民族を
「平民」に編入すべき旨が布達されている」と言っている(海保洋子『近代北方史――アイ
ヌ民族と女性と』三一書房、一九九二年、八六頁)。海保洋子の言うとおりなら、「維新政
府」は、「等」の「身分職業」を「平民同様」とするとした「賎称廃止令」の公布
以前に、アイヌを「平民」に「編入」するとしたことになる。だが、実際には、そのような
「布達」は、『太政官日誌』にも『法令全書』にも「開拓使」にかかわるいかなる布令集に
も掲載されていない。
この実在しない「布達」にかんし、林善茂は、
「1871年4月4日、戸籍法が公布になり、これにともなう戸籍調査の際、アイヌは平
民籍に編入すべき旨、北海道全域に布達になった。同年8月28日、の称が
廃止されたがら同様、「化外の民」扱いだったアイヌも、ようやく戸籍をもつように
なる」
と、悪質な表現でデタラメを書き(北海道新聞社編刊『北海道大百科事典』一九八一年、
「アイヌの戸籍編入」の項)、榎森進は、
「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布
達し[た]」
といい(榎森進『アイヌの歴史ーー北海道の人びと(2)』三省堂、一九八七年、一〇九頁)、
さらには、
「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし(大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類
聚』上編)、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布達し[た]」
と書いている(榎森進「「旧土人保護法」はアイヌを保護したか」、『日本近代史の虚像
と実像』1、大月書店、一九九〇年、一四三頁)。だが、ここでわざわざ榎森が依拠した
資料として示している『開拓使事業報告附録布令類聚』(一八八五年)には、上編にも
下編にも、そのような「布達」は掲載されていない。
一九九五年五月に榎森進は、実在しない一八七一年の「布達」を根拠にして、アイヌモ
シリが日本の領土とされたのは一九七一年だと主張した(上村英明「先住民族と歴史のマ
インド・コントロール」、『解放教育』一九九五年一〇月号、明治図書、参照)。
関秀志・桑原真人は、
「一八七一年に戸籍法が制定されると、開拓使はアイヌ民族を平民に編入すべき旨
を布達し、その後、数年の間にアイヌの戸籍が整備されて日本国民とされ……」
と書き(北の生活文庫企画編集会議編『北海道民のなりたち』北海道新聞社、一九九五
年、三九頁)、大塚和義は、
「一八七一年には、アイヌの人びとの意志を尊重しないで、勝手に「日本国民」とし
て戸籍に編入して、同化をしいた」
と説明し(大塚和義『アイヌ 海浜と水辺の民』新宿書房、一九九五年、一五七頁)、田
中彰は、
「一八七一年、開拓使が戸籍法公布に当たって、アイヌを・平民・に編入」
といい(田中彰・桑原真人『北海道開拓と移民』吉川弘文館、一九九六年、四三頁)、大
脇徳芳は、
「一八七一年、アイヌを平民籍に入れ、和人と同様の姓名を強要した」
と言っている(大脇徳芳「コタンを追われて 「北海道旧土人保護法」とアイヌ民族」、『北海
道の歴史 60話』三省堂、一九九六年、一七七頁)。
神奈川人権センター編刊『国際化時代の人権入門』(日高六郎監修、一九九六年)に
は、
「[明治新政府は]1871年には戸籍法を制定しアイヌを・平民・に編入」
と書かれており(一七七頁。この「入門書」では、侵略戦争を煽動した民族差別者松本
治一郎を、「「解放の父」と言われた松本治一郎」、「「解放の父」として尊敬を集め
ている」としている。金靜美『水平運動史研究――民族差別批判――』現代企画室、一
九九二年、参照)、花崎皋平も、
「一八七一年、戸籍法の公布とともに、アイヌは「平民」に編入され、「旧土人」と記載
される」
と書いている(花崎皋平「アイヌモシリの回復――日本の先住民族アイヌと日本国家の対
アイヌ政策――」、『差別と共生の社会学』〈『現代社会学』15〉岩波書店、一九九六年、
九七頁)。
このように、アイヌを「平民」とする「維新政府」の策動という基本問題にかんして、
長年にわたってあやまった記述がくりかえされてきた。
このようなあやまった記述の出所ははっきりしないが、一九四二年に、高倉新一郎が、
「開拓使は……、一八七一年四月戸籍法発布・戸籍調査の際、其地の土人を平民に
編入すべき旨を全道に布達[した]」(高倉新一郎『アイヌ政策史』日本評論社、四一八
頁。原文は「元号」使用)
と書いている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます