三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 11

2013年12月08日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で 8 浪炳村の犠牲者1
 趙志賢・世東・王文卿整理「日寇在浪炳村的暴行」(政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第6輯〈暴行与反暴行専輯〉1997年1月)には、昌城を拠点とする日本軍によって、1940年9月6日、1941年7月9日、7月21日、1942年6月に昌江黎族自治県昌化鎮浪炳村が襲われたときのことを語る村民(李隆石さん、洪仁瑞さん、李宏安さん)の証言と、日本軍に殺された村人36人の名が記録されている。
 わたしたちは、ことし(2013年)3月28日に、はじめて浪炳村を訪ねた。 
 村の中央の広場の大きな樹の下で、鍾仁恒さん(86歳)には次のように話した。
   ”日本軍が来たときは21歳くらいだった。
    浪炳村と近くの耐村、旧県村、光田村、黄羌村。この5つの村は、共産党の根拠地だっ
   た。
    日本軍は、飛行機で爆撃したあと、村に入ってきて、人を見たら殺した。女性を何人も強
   姦して、その場で殺したこともあった。
    爆撃のときは家にいたが、そのあと村の外にみんな逃げた。もどると、自分の家は(爆撃
   されないで)残っていた。日本軍が村に攻めてきたときは、家に隠れていた。飛行機が飛ん
   できて、爆弾を落とすのを見てみんな逃げたので、爆撃ではだれも死ななかった。
    日本軍は耐村に望楼をつくった。そのあと、日本軍は、毎日昼ごろ、たまには夜、村に来
   て調べたり、なにか聞いたりして農業ができないので生活がたいへんだった。
    浪炳村で日本軍に殺された人は、30ほと、国民党に殺されたのは15人ほどい。捕まって
   保平、大風、昌城に連れていかれた。
    保平で、5人がひとつの穴にいっしょに埋められたことがあった。1人は白沙の人、4人は
   この村の人だった。夜、家族が遺体を掘り出して連れて帰り、墓を作った。
    日本人は清算しなければいけない。命の賠償をしなければいけない。命を返すことはで
   きないが、かならず賠償しなければいけない。
    村人は、すこし大きくなると、交代で石碌鉱山に行かなくてはならなかった。わたしは、1
   か月交代で、2回ほど行った。石碌に行くには、保平まで歩いて、そこから車に乗せられて
   行った。石碌に行くとき、保長、甲長から命令が来た。わたしは、そのときはブタを飼うしご
   とをしていた。みんな交代で行かなければならず、行かないということはできなかった。行
   けといわれると、拒絶できない。
    石碌では、道路を作ったり、鉱山のしごとをした。山が高いから、山を削って低くする。石
   を運んだり、削ったり、土を運んだり。わたしは子どもだったから、土を運んだ。金はもらわ
   ない。食べ物だけ。1か月に一度、塩と布をくれた。
    病気になったら、すぐに火に投げ入れた。この目で見たこと。
    マラリアにかかった人は、火に投げ入れる前に、目、耳、鼻、しりの穴、みんな綿でふさい
   だ。生きているのに火のなかに入れられた人もいた。火の中から這い出てこようとすると、
   また火の中に押し込んだ。大きなクマデのようなもので、突いて放り込んだ。 
    青い服を着ている人たちがいた。みんな、青い服を着た人は朝鮮人だと言っていた。朝
   鮮人は、しごとに行くときも帰るときも行列を作っていた。列は長く、1000人くらいいたので
   はないか。4列になって、道路の真ん中を歩いていた。みんな男だった。歌を歌いながら歩
   いていた。日本人は銃を構えて、そのまわりを歩いていた。
    石碌では、みんな奴隷のように働かされていた。朝鮮人はとくにきついしごとをしていた。
    わたしは子どもだから、土を運ぶ軽いしごと。しごとが遅かったら、すぐに殴られた。監督
   は日本人か台湾人。みんな日本語を話していた。軍服は着ていないが、みんな銃を持って
   いた。
    共産党にはかならず、日本軍がどういう命令を出したか報告をしなければならなかった。
    この村の保長、甲長は共産党に報告していたので)日本軍が撤退したあと、共産党は、
   保長、甲長に何もしなかった。この村では、日本軍と国民党に協力したといって共産党に
   殺された人はいなかった。
    郷長は共産党員だった。日本軍に殺された”。

 蒙子和さん(83歳)は、つぎのように話した。
   “わたしも石碌に行かされた。鍾仁恒とは別に行った。15歳の時から2回行った。
    石碌で、足と手を日本人に強く殴られた。
    おおぜい死んだ。
    伝染病にかかったら、生きていても火の中に投げ入れられた。海南島の人も、大陸から
   来た人もいた。
    海口の近くから来た若い人が、しごとに慣れていなくて疲れた顔をしたら、穴を掘らされ
   て、穴のふちに立たせられ、日本兵に軍刀で首を切り落とされた。首だけ穴に落ちていっ
   たが、体はそのまま立っていた。日本兵は、軍刀でその体を突き刺し、穴に落とした。
    朝鮮人はしごとを終わって帰るとき、歌を歌いながら戻っていった。その周りを日本軍が
   銃を持って警戒しながら歩いて行った。朝鮮人は青い服の人もいるし、白い服の人もい
   た。
    食べるものはあまりない。1日2回、手のこぶしくらいのごはん。おかずは山の木の葉とと
   うがらし。腹がいっぱいになることはなかった。いつも腹がへっていた。
    現地のわれわれの食べ物はいいちばんひどかった。だから、よそから来た人たちのとこ
   ろには食べ物があるかと思った。台湾人とか香港人がいるところに行って食べ物をもらっ
   た人もいた。わたしも台湾人、香港人のところに行ったことがある。日本人は犬を放してい
   た。犬はわたしにに飛びかかってきて、頭の上を越えていった。汚水を頭からかけれたこと
   もあった。
    朝鮮人が住んでいたところは4重に鉄条網が張られていた。いまは昌江県党校になって
   いる。朝鮮人が住んでいたところを通ったが、入れなかった”。
                                              佐藤正人
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