二 アイヌの「平民」化 1
一八六九年八月一五日(旧暦七月八日)に、「維新政府」は、太政官の部局として「開拓使」を創設した(註2)。その一か月あまりのち、九月二〇日に、太政官は、アイヌモシリのうちそれまで和人が蝦夷地(「エゾ」の土地)と呼んでいた地域を、北海道と名づける布告をだした(同じ月、「開拓使」は、和人が北蝦夷地と呼んでいた地域を樺太とした)。
アイヌら北方諸民族の大地であった地域は、このとき日本の植民地とされた。北海道は、国民国家日本の最初の植民地である。一九四五年八月に、日本はアジア太平洋戦争に敗北し、台湾、朝鮮、中国東北部にたいする日本の植民地支配は終わったが、アイヌモシリにたいする日本の植民地支配はいまも続けれられている(註3)。アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会の北川しま子は、一九九五年に、
「アイヌ民族に対する侵略の歴史、経済的収奪、言葉を奪った教育、人権の剥奪などア
イヌ・モシリに対する植民地支配を解決しないで、日本政府は「戦後五〇年」などと虫の
いいことを言わないでください」
と発言している(註4)。
「維新政府」とその植民地機関「開拓使」は、やつぎばやに土地法令をだし、奪った大地を国有地とし、一部を和人の私有地とした。
「開拓使」を設置してから、わずか二週間後、一八六九年八月二九日に「維新政府」は、今後アイヌモシリの「開拓」を志願する士族や庶民には土地を渡すという太政官布告をだし(註5)、おなじ年の一〇月ころ(旧暦九月付)、「開拓使」は、
「北海道ハ皇国ノ北門山丹満州ニ接候場所ニテ開拓ハ方今ノ重事件ナリ依之第一土人ヲ
愛恤移住ノ民ヲ撫育シ高山遐陬ノ隈迄モ開拓致シ人烟ヲ充満致サセ候ハンテ不相
済……」という布達をだした(註6)。北海道は天皇の国の「北門」だから、これからは、 「愛恤(アイジュツ いつくしみあわれむ)」と称してアイヌ民族を支配し、和人をアイ
ヌモシリのすみずみに送りこんで「開拓」させるというのである。
さらに「開拓使」は、この一八六九年一二月に、「移民扶助規則」、「北海道在住令」、「山林荒蕪地払下規則」をだし、さらに一八七二年に、「北海道土地売貸規則」と「北海道地所規則」(註7)を施行した。これらの土地法令は、北海道と名づけた地域を日本の領土としたことを前提として、その地域の土地の私有権などを「維新政府」が確定するというものであった。「維新政府」は、アイヌの大地を、天皇一族、「華族」、「士族」、「平民」に分配していった。北海道に侵入してくる大量の和人植民者によって、アイヌの大地も川も山も海も荒らされ、コタンは衰弱させられていった。
註2 北海道ウタリ協会が一九八七年八月に国連の先住民に関する作業部会に提出した声
明では、「開拓使」は、Colonization Commission(植民委員会)と英語訳されている。
註3 「開拓使」が設置された一八六九年八月一五日は、たとえば、台湾総督府が設置された
一八九五年六月一七日と同質の歴史的意味をもつ日である。
琉球王国は一八七九年に、台湾は一八九五年に、朝鮮は一九一〇年に、カラフト南部
は一九〇五年に日本の領土とされたことは、日本においてもよく知られている事実だろ
う。
だが、アイヌモシリが日本の領土とされた年は日本の近現代史叙述において、ほとん
ど明確にされてこなかった。
たとえば、これまで使用されてきた高校教科書では、台湾侵略、朝鮮侵略にかんする
記述にも問題がおおいが、アイヌモシリにかんしては、アイヌモシリを侵略したという
事実が明瞭に書かれていない。侵略したという事実は、侵略したという歴史観・歴史認
識がなければ叙述できない。歴史観・歴史認識・歴史叙述は分離できない。
一九九七年度にあらたに文部省「検定」を通過した高校「日本史」教科書一一種のう
ち、いくらかでもアイヌモシリの歴史を系統的に叙述しようとしているものは、田中彰
ら八人著『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍)、江坂輝弥ら七人著『ワイド 日
本の歴史B』(桐原書店)、坂本賞三ら一三人著『改訂版 新日本人史B』(第一学習社)
の三種であり、ほかはこれまでのものと同様である。
直木孝次郎・江口圭一ら一二人著『日本史B 新訂版』(実教出版)には、
「独自の文化を育ててきたアイヌは、みずからの生活をささえてきた狩猟、漁撈や
山林伐採の権利を失い、日本への同化を余儀なくされた」
と書かれており、アイヌが山林伐採で「みずからの生活をささえてきた」かのようにさ
れている。アイヌ民族は、山林伐採などという大規模な自然破壊をおこなってはいなか
った。この記述は、一八七二年の「北海道地所規則」第七条の「山林川沢従来土人等魚
猟伐木仕来シ地ト雖モニ区分相立……」の「魚猟伐木」の安易な解釈だろう(本稿註7参
照)。
アイヌモシリ植民地化は「権利」を失うかどうかという問題ではない。
石井進ら一六人著『日本史A』(山川出版社)には、
「北海道開発の陰で、アイヌはそれまでの伝統的な生活・風俗・習性・信仰を失って
いった」
と書かれている。石井進ら一六人は、「北海道開発」というが、北方諸民族はその大地を
侵略されたのだ。アイヌモシリ侵略を「北海道開発」とする思想の基盤は、侵略を「進出」
とする思想の基盤と同じである。
石井進ら一二人著『詳説日本史 改訂版』(山川出版社)も悪質で、筆者は、
「アイヌ集団は、一六六九(寛文九)年シャクシャインを中心に松前藩と対立して
戦闘になったが、松前藩は津軽藩の協力を得て鎮圧した、このシャクシャインの
戦いを最後に、アイヌは全面的に松前藩に服従させられ……」
と書いている。同書にはこのあとアイヌにかんする記述がいっさいナイ。
小林英夫ら一四人著『明解日本史A 改訂版』(三省堂)には、
「アイヌは生活の場をうばわれ、「保護区」においやられた」
と事実と異なることが書かれている。そのような「保護区」が「北海道」のどこにつくられ
たのか?
註4 北川しま子「アイヌ民族にとっての「終戦」はない」『飛礫』8、鹿砦社、一九九五年一〇
月。
註5 原文は「今後諸藩士族及庶民ニ致ル迄志願次第申出候者ハ相応之地割渡シ開拓可
被」。『一八六九年 法令全書』二七五頁。原書表題は「元号」使用。
註6 一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、四六頁。原書表題は「元
号」使用。
この布達は、ほぼ同時期一八六九年一〇月七日付で「維新政府」が「右大臣」の名で
「開拓使」にだした「北海道ハ皇国之北門最要衝ノ地ナリ……内地人民漸次移住に付土
人と協和……」という文書をもとにしているのだろう。
註7 「地所規則」の第七条には、「山林川沢従来土人等魚猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分
相立……」と書かれ、それまでアイヌが「魚猟伐木」していた土地でも和人が私有で
き、一五年間租税を免除し地代を払わなくてもよいとされていた。
一八六九年八月一五日(旧暦七月八日)に、「維新政府」は、太政官の部局として「開拓使」を創設した(註2)。その一か月あまりのち、九月二〇日に、太政官は、アイヌモシリのうちそれまで和人が蝦夷地(「エゾ」の土地)と呼んでいた地域を、北海道と名づける布告をだした(同じ月、「開拓使」は、和人が北蝦夷地と呼んでいた地域を樺太とした)。
アイヌら北方諸民族の大地であった地域は、このとき日本の植民地とされた。北海道は、国民国家日本の最初の植民地である。一九四五年八月に、日本はアジア太平洋戦争に敗北し、台湾、朝鮮、中国東北部にたいする日本の植民地支配は終わったが、アイヌモシリにたいする日本の植民地支配はいまも続けれられている(註3)。アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会の北川しま子は、一九九五年に、
「アイヌ民族に対する侵略の歴史、経済的収奪、言葉を奪った教育、人権の剥奪などア
イヌ・モシリに対する植民地支配を解決しないで、日本政府は「戦後五〇年」などと虫の
いいことを言わないでください」
と発言している(註4)。
「維新政府」とその植民地機関「開拓使」は、やつぎばやに土地法令をだし、奪った大地を国有地とし、一部を和人の私有地とした。
「開拓使」を設置してから、わずか二週間後、一八六九年八月二九日に「維新政府」は、今後アイヌモシリの「開拓」を志願する士族や庶民には土地を渡すという太政官布告をだし(註5)、おなじ年の一〇月ころ(旧暦九月付)、「開拓使」は、
「北海道ハ皇国ノ北門山丹満州ニ接候場所ニテ開拓ハ方今ノ重事件ナリ依之第一土人ヲ
愛恤移住ノ民ヲ撫育シ高山遐陬ノ隈迄モ開拓致シ人烟ヲ充満致サセ候ハンテ不相
済……」という布達をだした(註6)。北海道は天皇の国の「北門」だから、これからは、 「愛恤(アイジュツ いつくしみあわれむ)」と称してアイヌ民族を支配し、和人をアイ
ヌモシリのすみずみに送りこんで「開拓」させるというのである。
さらに「開拓使」は、この一八六九年一二月に、「移民扶助規則」、「北海道在住令」、「山林荒蕪地払下規則」をだし、さらに一八七二年に、「北海道土地売貸規則」と「北海道地所規則」(註7)を施行した。これらの土地法令は、北海道と名づけた地域を日本の領土としたことを前提として、その地域の土地の私有権などを「維新政府」が確定するというものであった。「維新政府」は、アイヌの大地を、天皇一族、「華族」、「士族」、「平民」に分配していった。北海道に侵入してくる大量の和人植民者によって、アイヌの大地も川も山も海も荒らされ、コタンは衰弱させられていった。
註2 北海道ウタリ協会が一九八七年八月に国連の先住民に関する作業部会に提出した声
明では、「開拓使」は、Colonization Commission(植民委員会)と英語訳されている。
註3 「開拓使」が設置された一八六九年八月一五日は、たとえば、台湾総督府が設置された
一八九五年六月一七日と同質の歴史的意味をもつ日である。
琉球王国は一八七九年に、台湾は一八九五年に、朝鮮は一九一〇年に、カラフト南部
は一九〇五年に日本の領土とされたことは、日本においてもよく知られている事実だろ
う。
だが、アイヌモシリが日本の領土とされた年は日本の近現代史叙述において、ほとん
ど明確にされてこなかった。
たとえば、これまで使用されてきた高校教科書では、台湾侵略、朝鮮侵略にかんする
記述にも問題がおおいが、アイヌモシリにかんしては、アイヌモシリを侵略したという
事実が明瞭に書かれていない。侵略したという事実は、侵略したという歴史観・歴史認
識がなければ叙述できない。歴史観・歴史認識・歴史叙述は分離できない。
一九九七年度にあらたに文部省「検定」を通過した高校「日本史」教科書一一種のう
ち、いくらかでもアイヌモシリの歴史を系統的に叙述しようとしているものは、田中彰
ら八人著『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍)、江坂輝弥ら七人著『ワイド 日
本の歴史B』(桐原書店)、坂本賞三ら一三人著『改訂版 新日本人史B』(第一学習社)
の三種であり、ほかはこれまでのものと同様である。
直木孝次郎・江口圭一ら一二人著『日本史B 新訂版』(実教出版)には、
「独自の文化を育ててきたアイヌは、みずからの生活をささえてきた狩猟、漁撈や
山林伐採の権利を失い、日本への同化を余儀なくされた」
と書かれており、アイヌが山林伐採で「みずからの生活をささえてきた」かのようにさ
れている。アイヌ民族は、山林伐採などという大規模な自然破壊をおこなってはいなか
った。この記述は、一八七二年の「北海道地所規則」第七条の「山林川沢従来土人等魚
猟伐木仕来シ地ト雖モニ区分相立……」の「魚猟伐木」の安易な解釈だろう(本稿註7参
照)。
アイヌモシリ植民地化は「権利」を失うかどうかという問題ではない。
石井進ら一六人著『日本史A』(山川出版社)には、
「北海道開発の陰で、アイヌはそれまでの伝統的な生活・風俗・習性・信仰を失って
いった」
と書かれている。石井進ら一六人は、「北海道開発」というが、北方諸民族はその大地を
侵略されたのだ。アイヌモシリ侵略を「北海道開発」とする思想の基盤は、侵略を「進出」
とする思想の基盤と同じである。
石井進ら一二人著『詳説日本史 改訂版』(山川出版社)も悪質で、筆者は、
「アイヌ集団は、一六六九(寛文九)年シャクシャインを中心に松前藩と対立して
戦闘になったが、松前藩は津軽藩の協力を得て鎮圧した、このシャクシャインの
戦いを最後に、アイヌは全面的に松前藩に服従させられ……」
と書いている。同書にはこのあとアイヌにかんする記述がいっさいナイ。
小林英夫ら一四人著『明解日本史A 改訂版』(三省堂)には、
「アイヌは生活の場をうばわれ、「保護区」においやられた」
と事実と異なることが書かれている。そのような「保護区」が「北海道」のどこにつくられ
たのか?
註4 北川しま子「アイヌ民族にとっての「終戦」はない」『飛礫』8、鹿砦社、一九九五年一〇
月。
註5 原文は「今後諸藩士族及庶民ニ致ル迄志願次第申出候者ハ相応之地割渡シ開拓可
被」。『一八六九年 法令全書』二七五頁。原書表題は「元号」使用。
註6 一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、四六頁。原書表題は「元
号」使用。
この布達は、ほぼ同時期一八六九年一〇月七日付で「維新政府」が「右大臣」の名で
「開拓使」にだした「北海道ハ皇国之北門最要衝ノ地ナリ……内地人民漸次移住に付土
人と協和……」という文書をもとにしているのだろう。
註7 「地所規則」の第七条には、「山林川沢従来土人等魚猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分
相立……」と書かれ、それまでアイヌが「魚猟伐木」していた土地でも和人が私有で
き、一五年間租税を免除し地代を払わなくてもよいとされていた。