三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 4

2013年12月21日 | 個人史・地域史・世界史
二 アイヌの「平民」化 1
 一八六九年八月一五日(旧暦七月八日)に、「維新政府」は、太政官の部局として「開拓使」を創設した(註2)。その一か月あまりのち、九月二〇日に、太政官は、アイヌモシリのうちそれまで和人が蝦夷地(「エゾ」の土地)と呼んでいた地域を、北海道と名づける布告をだした(同じ月、「開拓使」は、和人が北蝦夷地と呼んでいた地域を樺太とした)。
 アイヌら北方諸民族の大地であった地域は、このとき日本の植民地とされた。北海道は、国民国家日本の最初の植民地である。一九四五年八月に、日本はアジア太平洋戦争に敗北し、台湾、朝鮮、中国東北部にたいする日本の植民地支配は終わったが、アイヌモシリにたいする日本の植民地支配はいまも続けれられている(註3)。アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会の北川しま子は、一九九五年に、
   「アイヌ民族に対する侵略の歴史、経済的収奪、言葉を奪った教育、人権の剥奪などア
   イヌ・モシリに対する植民地支配を解決しないで、日本政府は「戦後五〇年」などと虫の
   いいことを言わないでください」
と発言している(註4)。
 「維新政府」とその植民地機関「開拓使」は、やつぎばやに土地法令をだし、奪った大地を国有地とし、一部を和人の私有地とした。
 「開拓使」を設置してから、わずか二週間後、一八六九年八月二九日に「維新政府」は、今後アイヌモシリの「開拓」を志願する士族や庶民には土地を渡すという太政官布告をだし(註5)、おなじ年の一〇月ころ(旧暦九月付)、「開拓使」は、
   「北海道ハ皇国ノ北門山丹満州ニ接候場所ニテ開拓ハ方今ノ重事件ナリ依之第一土人ヲ
   愛恤移住ノ民ヲ撫育シ高山遐陬ノ隈迄モ開拓致シ人烟ヲ充満致サセ候ハンテ不相
   済……」という布達をだした(註6)。北海道は天皇の国の「北門」だから、これからは、   「愛恤(アイジュツ いつくしみあわれむ)」と称してアイヌ民族を支配し、和人をアイ
   ヌモシリのすみずみに送りこんで「開拓」させるというのである。
 さらに「開拓使」は、この一八六九年一二月に、「移民扶助規則」、「北海道在住令」、「山林荒蕪地払下規則」をだし、さらに一八七二年に、「北海道土地売貸規則」と「北海道地所規則」(註7)を施行した。これらの土地法令は、北海道と名づけた地域を日本の領土としたことを前提として、その地域の土地の私有権などを「維新政府」が確定するというものであった。「維新政府」は、アイヌの大地を、天皇一族、「華族」、「士族」、「平民」に分配していった。北海道に侵入してくる大量の和人植民者によって、アイヌの大地も川も山も海も荒らされ、コタンは衰弱させられていった。

 註2 北海道ウタリ協会が一九八七年八月に国連の先住民に関する作業部会に提出した声
   明では、「開拓使」は、Colonization Commission(植民委員会)と英語訳されている。
 註3 「開拓使」が設置された一八六九年八月一五日は、たとえば、台湾総督府が設置された
   一八九五年六月一七日と同質の歴史的意味をもつ日である。
    琉球王国は一八七九年に、台湾は一八九五年に、朝鮮は一九一〇年に、カラフト南部
   は一九〇五年に日本の領土とされたことは、日本においてもよく知られている事実だろ
   う。
    だが、アイヌモシリが日本の領土とされた年は日本の近現代史叙述において、ほとん
   ど明確にされてこなかった。
    たとえば、これまで使用されてきた高校教科書では、台湾侵略、朝鮮侵略にかんする
   記述にも問題がおおいが、アイヌモシリにかんしては、アイヌモシリを侵略したという
   事実が明瞭に書かれていない。侵略したという事実は、侵略したという歴史観・歴史認
   識がなければ叙述できない。歴史観・歴史認識・歴史叙述は分離できない。
    一九九七年度にあらたに文部省「検定」を通過した高校「日本史」教科書一一種のう
   ち、いくらかでもアイヌモシリの歴史を系統的に叙述しようとしているものは、田中彰
   ら八人著『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍)、江坂輝弥ら七人著『ワイド 日
   本の歴史B』(桐原書店)、坂本賞三ら一三人著『改訂版 新日本人史B』(第一学習社)
   の三種であり、ほかはこれまでのものと同様である。
    直木孝次郎・江口圭一ら一二人著『日本史B 新訂版』(実教出版)には、
     「独自の文化を育ててきたアイヌは、みずからの生活をささえてきた狩猟、漁撈や
     山林伐採の権利を失い、日本への同化を余儀なくされた」
   と書かれており、アイヌが山林伐採で「みずからの生活をささえてきた」かのようにさ
   れている。アイヌ民族は、山林伐採などという大規模な自然破壊をおこなってはいなか
   った。この記述は、一八七二年の「北海道地所規則」第七条の「山林川沢従来土人等魚
   猟伐木仕来シ地ト雖モニ区分相立……」の「魚猟伐木」の安易な解釈だろう(本稿註7参
   照)。
    アイヌモシリ植民地化は「権利」を失うかどうかという問題ではない。
    石井進ら一六人著『日本史A』(山川出版社)には、
     「北海道開発の陰で、アイヌはそれまでの伝統的な生活・風俗・習性・信仰を失って
     いった」
   と書かれている。石井進ら一六人は、「北海道開発」というが、北方諸民族はその大地を
   侵略されたのだ。アイヌモシリ侵略を「北海道開発」とする思想の基盤は、侵略を「進出」
   とする思想の基盤と同じである。
    石井進ら一二人著『詳説日本史 改訂版』(山川出版社)も悪質で、筆者は、
      「アイヌ集団は、一六六九(寛文九)年シャクシャインを中心に松前藩と対立して
      戦闘になったが、松前藩は津軽藩の協力を得て鎮圧した、このシャクシャインの
      戦いを最後に、アイヌは全面的に松前藩に服従させられ……」
   と書いている。同書にはこのあとアイヌにかんする記述がいっさいナイ。
    小林英夫ら一四人著『明解日本史A 改訂版』(三省堂)には、
     「アイヌは生活の場をうばわれ、「保護区」においやられた」
   と事実と異なることが書かれている。そのような「保護区」が「北海道」のどこにつくられ
   たのか?
 註4 北川しま子「アイヌ民族にとっての「終戦」はない」『飛礫』8、鹿砦社、一九九五年一〇
   月。
 註5 原文は「今後諸藩士族及庶民ニ致ル迄志願次第申出候者ハ相応之地割渡シ開拓可
   被」。『一八六九年 法令全書』二七五頁。原書表題は「元号」使用。
 註6 一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、四六頁。原書表題は「元
   号」使用。
    この布達は、ほぼ同時期一八六九年一〇月七日付で「維新政府」が「右大臣」の名で
   「開拓使」にだした「北海道ハ皇国之北門最要衝ノ地ナリ……内地人民漸次移住に付土
   人と協和……」という文書をもとにしているのだろう。
 註7 「地所規則」の第七条には、「山林川沢従来土人等魚猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分
    相立……」と書かれ、それまでアイヌが「魚猟伐木」していた土地でも和人が私有で
    き、一五年間租税を免除し地代を払わなくてもよいとされていた。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 3

2013年12月20日 | 個人史・地域史・世界史
■一 アイヌモシリは、日本の固有の領土ではない
  (3)「アイヌ文化振興・研究推進機構」

 七月一日、アイヌモシリ植民地化新法が施行されると同時に「旧土人保護法」が廃止された。だが、この新法は、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」という名(註1)のとおり、アイヌの文化と伝統にかんする「法律」であって、経済法ではないので、「旧土人保護法」にかわる法律とはできない。「旧土人保護法」を廃止するまえに、日本政府は「旧土人保護法」によっておこなってきたアイヌにたいする歴史的犯罪の全体を明らかにしなければならない。そのような作業をなにも行なわずにアイヌモシリ植民地化新法を施行すると同時に「旧土人保護法」を廃止するのは、「旧土人保護法」が北海道長官(→知事)の管理としてきたアイヌ民族の共有財産を略奪することをも意味する。
 アイヌモシリ植民地化新法の施行日に、本部を札幌におく財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」なるものが発足した。
 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が、アイヌモシリ植民地化継続のための新法であることは、この財団の構成・運営にも明瞭に示されている。
 この財団の理事長にも専務理事兼事務局長にも和人が就任し、理事一五人中、アイヌは六人、評議員一八人中、アイヌは六人であり、職員のうち六人が北海道庁から派遣されている。和人理事の中には、北海道地域総合振興常務理事(元北海道開発庁計画監理間)や私立大学退職金財団常務理事(元文化庁文化保護部長)などが入っている。
 六月二七日付で理事長に就任した佐々木高明は、今年三月まで四年間、国立民族学博物館の館長であったが、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の「有識者」の一人であり、さらにはアイヌモシリ植民地化新法の作成作業にも参加していた。「アイヌ文化振興・研究推進機構」は、日本の民族学研究とむすびついている。民族学や人類学や植民学は、帝国主義諸国の植民地支配に奉仕する学問であったが、いまもその基本性格はかわっていない。
 この財団の理事長と専務理事兼事務局長(北海道庁から出向した天池智裕)は、就任そうそう、副理事長であるウタリ協会理事長笹村二朗にも知らせることなく、東京の北海道開発庁内で、文化庁や北海道開発庁の官僚らと和人のみで事業内容の協議をおこなった。七月八日に「アイヌ文化振興・研究推進機構」の理事・評議員のうち笹村二朗らウタリ協会の八人の人びとは、この二人の辞任を要求した(七月一四日に撤回)。

 註1 日本の新聞記事では、「アイヌ文化振興法」、「アイヌ文化法」、「アイヌ新法」と略称されている。
    「アイヌ文化管理法」、「アイヌ学者養成法」だと指摘する人もいる。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 2

2013年12月19日 | 個人史・地域史・世界史
■一 アイヌモシリは、日本の固有の領土ではない
  (2)「ウタリ対策のあり方」

 一年前、一九九六年四月一日、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が、報告書をだした。
 この「懇談会」は、日本政府の官房長官の私的諮問機関として一九九五年三月末に設置されたものである。この種の「懇談会」には当事者は加えないという「原則」があるとして、アイヌはひとりも参加させられなかったが、そのような「原則」があるなら、アイヌモシリ侵略の当事者そのものである和人も参加させてはならなかった。だが、この「懇談会」に集められた「有識者」はすべて和人であり、そのなかにはアイヌモシリ植民地機関(北海道庁)の知事もいた。アイヌを排除してアイヌにたいする政策文書をつくるというやりかたは、「旧土人保護法」の場合と同じであった。
 本誌前号でのべたように、この「懇談会」に集められた和人「有識者」らは、北海道を「我が国固有の領土」とし、アイヌモシリ侵略・植民地化を前提として、「アイヌ対策のあり方」にかんする「意見」をだしていた。それは、日本のこれまでのアイヌモシリ侵略の歴史を肯定し、アイヌモシリ植民地化を固定化しようとするものであった。
 一八六八年の「明治維新」当時、北方のアイヌモシリも南方のウチナー、八重山地域も、日本の領土ではなかった。
 「明治維新」の翌年、アイヌモシリの一部分は日本国家に占領されて北海道と名づけられ、琉球王国は、一八七九年に日本国家に占領されて沖縄県と名づけられ、八重山地域は、一八九五年に台湾とともに日本国家に占領されて沖縄県に組みこまれた。現在北海道と名づけられている地域も「北方四島」も沖縄地域も、「中世末期」以前はもちろん、日本の「中世末期以降の歴史の中」でみても、日本の「固有の領土」ではない。
 さらに、この「ウタリ対策のあり方」に関する報告書で、和人「有識者」らは、
   「我が国からの分離・独立等政治的地位の決定にかかわる自決権や、北海道の土地、資
   源等の返還、補償等にかかわる自決権という問題を、我が国におけるアイヌの人々に係
   る新たな施策の展開の基礎に置くことはできないものと考える」
としていた。かれらは、アイヌ民族の先住権をあいまいにし、アイヌ民族に謝罪も賠償もせず、アイヌモシリをいつまでも日本の植民地としておくことを提唱していた。
 この報告書提出の一か月後、昨年五月九日に日本政府は、アイヌ民族にたいする「新たな立法措置」(「ウタリ対策」を目的とする新法制定)をおこなうため、内閣内政審議室、北海道開発庁、外務省など一三省庁からなる「アイヌ関連施策関係省庁連絡会議」を新設し、北海道開発庁が新法文作成の主務官庁となった。
 今年、三月二一日に、総理府、北海道開発庁、文部省、厚生省の官僚が作文して「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」と名づけた新法が閣議決定され、即日国会に提出され、四月九日に参議院を、五月八日に衆議院を、全会一致で通過した。六月二四日に日本政府は、この新法の施行日を七月一日とすることを閣議決定した。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 1

2013年12月18日 | 個人史・地域史・世界史
『アジア問題研究所報』12号(アジア問題研究所、1997年9月)に掲載された「国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化」を連載します。1997年7月に書いたものです。
                                     佐藤正人
 
  一 アイヌモシリは、日本の固有の領土ではない
     (1)アイヌモシリ植民地化新法が施行された
     (2)「ウタリ対策のあり方」
     (3)「アイヌ文化振興・研究推進機構」
  二 アイヌの「平民」化
  三 アイヌモシリ植民地化の数年後から
  四 日本近現代史の総括を

■一 アイヌモシリは、日本の固有の領土ではない
  (1)アイヌモシリ植民地化新法が施行された

 一九九七年七月一日、香港にたいする、大英帝国の植民地支配が終わった。
 同じ日、日本で「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が施行され、同時に「旧土人保護法」が廃止された。
 この新法は、アイヌを先住民族とせず、アイヌ文化(「アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた音楽、舞踊、工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産」)を「我が国の多様な文化」の枠内のものとし、日本のアイヌモシリ占領を当然の前提としている。
 本誌前号「「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」」の四節「現在の植民地、アイヌモシリ」の末部に、わたしは、
   「日本政府は、一九九七年はじめまでに「アイヌ新法」をつくろうとしている。アイヌモシリ
   におけるアイヌ民族の先住権を明確にすることなしに、アイヌ民族にたいし日本政府が謝
   罪・賠償することなしに、「アイヌ新法」が制定されるならば、一八九九年に「旧土人保護
   法」制定を許したあやまちを、日本民衆は一〇〇年後にふたたびくりかえすことになる」
と書いたが、ちからがたりず、日本政府に、北方諸民族にたいして謝罪・賠償させることができないまま、アイヌモシリ侵略・民族差別を固定化するあらたな植民地法の制定を許してしまった。
 この新法は、アイヌモシリ植民地化新法というべきものである。
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「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」 5

2013年12月17日 | 個人史・地域史・世界史
■五 日本民衆として
 民衆の研究機関であるアジア問題研究所が発足してからまもなく二〇年、『所報』が創刊されてからまもなく一〇年になる。この間に、ヒロヒトが侵略責任をまったくとることなく死に、日本政府とマスメディアの先導にしたがっておおくの日本国民が、その死を「哀悼」した。ソ連という国家体制が崩壊し、ロシアナショナリズムが強化され、東ドイツが西ドイツに「併合」され、ドイツナショナリズムが強化された。南アフリカ共和国の白人アパルトヘイト政権が打倒された。日本の陸軍と海軍が国外に出兵した。イラク、クルディスタン、チェチェン、ボスニア、ルアンダ……で大殺戮がおこなわれた。
 日本民衆は、天皇(制)を廃止し、日本の侵略の構造をうちくだき、じぶんの生活の向上のために他国の民衆から収奪することをやめないならば、アジアの民衆と連帯することはできない。
 「侵略の構造のなかの「共生」でなく、侵略の構造を破壊する共闘を」というよびかけに応え、わたしも「侵略の構造を破壊する共闘」としての歴史研究をすすめ、過去の侵略の事実を明らかにし、民衆のたたかいの勝利と敗北を総括し、日本帝国主義者の策動にひとつひとつ対抗していくたたかいの拠点を確実なものとしていきたい。
                                  (一九九六年七月)
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「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」 4

2013年12月16日 | 個人史・地域史・世界史
■四 現在の植民地、アイヌモシリ
 一八六九年、「維新政府」はアイヌモシリを植民地とした。アイヌモシリ植民地化は、国民国家日本形成の起点であった。
 だが、いま日本人のほとんどは、日本がアイヌモシリを植民地支配しつづけているという明白な歴史的事実を直視していない。
 アイヌモシリ植民地化一二六年後の一九九五年に、知里むつみは、こうのべている。
    「明治になると同時に、アイヌ民族がアイヌモシリと呼び、シサムが蝦夷地と呼んで、ほ
   とんど外国と思っていたところを、一方的に組み込んでしまいました。今から百二十六
   年前のことです……それからは、日本語を強制され、独自の民族の風習を禁止され、日
   本名を強制されました。その後、アイヌの主食の鮭や鹿の猟を禁止するということが行
   われました」(知里むつみ「アイヌとシサム」、『戦後を語る』岩波書店、一九九五年)。

 一九九五年八月一五日の三週間前、七月二五日に、北海道大学の研究室で、ウィルタ三人、朝鮮人一人、日本人一人、不明一人の頭蓋骨が発見された。発見したのは、たまたまその研究室を掃除していたアイヌであった。六体の遺骨は、「われもの」とかかれたダンボール箱にいれられてながいあいだ放置されていたのだ。三体の遺骨には「風葬オロッコ」という付せんがつけられていた。一体は佐藤政次郎なる人物が一九〇六年に朝鮮の珍島からもちこんだ甲午農民戦争の指導者の遺骨であった。この遺骨は、今年五月二九日に、韓国の「東学農民革命軍指導者遺骸奉還委員会」にわたされ、五月三〇日にソウルで慰霊式が、五月三一日に全州市で鎮魂祭が行なわれた。
 ヨーロッパ帝国主義諸国でもUSAでも、民衆のおおくは、植民地支配の歴史的責任を問題としてこなかった。植民地での暴虐は現在の問題なのだ。いまも西ヨーロッパの博物館や大学には、アフリカ人の骨が山積みになっている。
 一九世紀後半以後の日本の歴史は、アイヌモシリ、ウチナー、台湾、中国、朝鮮、モンゴル、ミクロネシア……にたいする侵略の歴史であり、その侵略の歴史はまだ終っていない。
 一八六九年の「蝦夷地」植民地化以後、一八七五年の「千島樺太交換条約」締結から現在にいたるまで、日本人は、アイヌにたいする民族差別から解放されていない。日本政府は一九八一年に、二月七日を「北方領土の日」とすることを閣議決定した。クナシリ・エトロフ・ハボマイ・シコタンをふたたび日本の植民地としようとする、国民国家日本の官民の「北方領土返還運動」は、北方諸民族にたいする根本的な民族差別運動であり、日本ナショナリズムを強化する運動である。

 今年四月一日に、日本政府官房長官の私的諮問機関「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が「答申」をだした。
 この「答申」には、アイヌ民族について、
   「少なくとも中世末期以後の歴史の中でみると……日本列島北部周辺、とりわけ我が国
   固有の領土である北海道に先住していたことは否定できないと考えられる」
と書かれている。この「懇談会」に集められた日本人「有識者」らは、アイヌ民族の先住権をうやむやにしている。
 かれらは「我が国固有の領土である北海道」というが、北方諸民族の大地であったアイヌモシリの一部を、「維新政府」が「北海道」となづけたのは一八六九年であり、「北海道」は日本の「固有の領土」ではなく植民地である。
 また、この「答申」には、
   「明治以降、我が国が近代国家としてスタートし、「北海道開拓」を進める中で……アイ
   ヌの人々の社会や文化が受けた打撃は決定的なものとなった。……差別され、貧窮を余
   儀なくされたアイヌの人々は多数に上った」
と書かれている。
 アイヌモシリの自然を破壊し、アイヌの生活や文化を破壊し、いまも破壊しつづけているのは、誰なのか! 謝罪もせず、歴史的責任を明らかにもせず! 「差別と貧窮を……」というが、アイヌにたいする民族差別をつづけ、アイヌからアイヌ語をうばってきたのは、シャモであった。アイヌに狩猟を禁止し、鮭漁を禁止し、アイヌの生活を成り立たなくし、困窮させたのはシャモであった。
 「答申案」の文体と「論理」の質は、「八・一五」の五〇年後におこなわれた、日本国会の「謝罪決議」とおなじである。
 日本政府は、一九九七年はじめまでに「アイヌ新法」をつくろうとしている。アイヌモシリにおけるアイヌ民族の先住権を明確にすることなしに、アイヌ民族にたいし日本政府が謝罪・賠償することなしに、「アイヌ新法」が制定されるならば、一八九九年に「旧土人保護法」制定を許したあやまちを、日本民衆は一〇〇年後にふたたびくりかえすことになる。
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「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」 3

2013年12月15日 | 個人史・地域史・世界史
■三 「戦後」・「ポストコロニアリズム」という虚偽
 フランスの国籍をとったブルガリアうまれのJ・クリステヴァは、フランスのアメリカ・アフリカ・アジア侵略にたいする根本的な批判をしないで(できないで)いいかげんな発言をくりかえし、日本の侵略責任を問おうとしない日本のポストモダニスト、ポスト構造主義者たちに支持されてきた。その著述は、二〇年あまり前から日本でも翻訳書がだされているが、一九九四年に日本語訳がだされた『彼方をめざしてーーネーションとは何かーー』(せりか書房)では、J・クリステヴァは、「フランスという国の輝かしい伝統」を語り、アルジェリア、「インドシナ」、ギニア……を植民地支配し、反撃する住民を殺戮したフランスの「伝統」を、「輝かしい」といっている。
 ヨーロッパでもUSAでも日本でも、ポストモダニスト・ポスト構造主義者たちは、ヨーロッパ諸国やUSAや日本の近現代の侵略史をまともに総括しようとしないで、あれこれ発言をつづけていた。数年まえから、フランスやイギリスで「ポストコロニアリズム」ということばがつかわれはじめた。このことばは、日本にもさっそく輸入され、「八・一五」の五〇年後からつかう日本人インテリがでてきた。「ポストコロニアリズム」ということばは、しばしばカルチュラルスタディーズとむすびつき、現在の植民地侵略にたいする対決の姿勢をあいまいにしたままつかわれている。この用語の使用者は、直接的な植民地支配を過去のこととしている。
 「ポストコロニアリズム」ということばがフランスで流行しはじめてまもなく、テ・アオ・マオヒ(フランス植民地支配下のポリネシア)で、フランス政府は水素爆弾の爆破実験をくりかえした。テ・アオ・マオヒが「ポストコロニアリズム」の世界であったなら、その地と海でフランス政府は核実験をおこなうことができず、あえて実験を強行するなら、フランス本土でやらざるをえなかっただろう。
 ヨーロッパ大戦後「五〇年」という歴史の枠組みでは、ドイツ民衆は、ナチス時代の侵略とユダヤ人虐殺の責任をいくらかはとることができるかもしれないが、アフリカでの大虐殺の歴史的責任をとることができない。ドイツが、タンガニイカやナミビアを植民地にしていたとき、マジマジ烽起やヘレロ族の烽起のさい、ドイツ人はなにをやったか。サン族にたいしドイツ人はなにをやったか。アウシュヴィッツの本質は、すくなくとも一九世紀末にさかのぼらなければつかめない。
 フランスでもドイツでもイギリスでもコロニアリズムの問題は、現在の問題である。
 近現代史において、日本人に戦後(「敗戦後」であろうと「終戦後」であろうと)も植民地後もなかった。
 日本人にとって、「八・一五」は歴史的画期ではなかった。
 「八・一五」以後も、日本民衆のおおくは、侵略の歴史を終らせようとしておらず、天皇(制)を存続させ、抑圧民族として過去と現在の侵略によって日常生活を維持・向上させている。七三一部隊の研究は、破棄されず、「八・一五」以後の日本の医学の「進歩」のデータとされた。
 「八・一五」以後もそれまでの、政治・文化・思想……がひきつがれた。
 一九九五年に、韓国で、盧泰愚、全斗煥が逮捕され、一九七九~一九八〇年のクーデタ、民衆弾圧、収賄の責任追求が開始された。だが、日本では、あいかわらずヒロヒトのアジア民衆虐殺の責任追求はなされず、ヒロヒトが世界の平和を願っていたかのように宣伝するアキヒトは、「終戦後五〇年」の七月末~八月はじめに、長崎、広島、沖縄、東京の四か所に「慰霊」しにいき、八月八日に「国がためあまた逝きしを悼みつつ……」という「歌」を「日本遺族会」にわたしてアジア太平洋の各地に侵入しおおくの民衆を殺害した「皇軍」の戦争目的を「国がため」といってその遺族を激励した。

 酒井直樹は、一九九五年秋に発表した論文で、
   「一九四五年まで、日本政府は、朝鮮においてまた台湾において、その住民をどうにか
   「日本人」に仕立て上げようと努力してある程度の成功を収めていたのではないだろうか。
   敗戦後いろいろな形で否認されることになるにしても、台湾や沖縄、朝鮮などの居住者
   が、「日本人」として認知され自らをそう同定することに喜びを見い出さざるを得なくさ
   せる歴史的社会的条件が制作されつつあったのではないのか」
と書いている(「丸山真男と戦後日本」、『世界』一九九五年一一月号)。だが、このとき、酒井は、同時に、朝鮮でも台湾でも、「日本人」とされることを拒否した人びとがいた事実についても、酒井のいうような「歴史的社会的条件」の「制作」を阻止する民衆の運動・たたかいの歴史についても語ろうとしていない。酒井は、日本帝国主義者の皇民化策動の「ある程度の成功」なるものを、断定型をさけ、逃げ道を用意した文体で語るが、その策動の崩壊の「歴史的社会的条件」を分析しようとはしない。ここで酒井は、「日本政府」の「成功」の「歴史的社会的条件」を説明するために、「台湾や沖縄、朝鮮などの居住者」の心理をもちだしている。
 酒井はその論著で、そのような説明をくりかえしているが、そのうちとくに悪質なのは、次のようなものである。
   「「認知」の欲望を通じて植民地主義は支配するのだ。そして、いったんこの欲望が刻印
   されると、支配者に対する糾弾、批判、抗議の行為がすべて「求愛」の所作の意味合いを
   もち始めるのである。……自己の独立への欲望は「認めて欲しい」「憐れんで欲しい」と
   いう自己憐愍を伴う自己同一性への欲望にすぎなくなってしまう。たとえそれが暴力的で
   敵対的な形をとるとしても」(『死産される日本語・日本人』新曜社、一九九六年、二二八
   頁)。
 酒井は、「植民地支配者側」にたいする「被支配者側」の「欲望」なるものを想像し解釈して、このようなあくどい暴言をならべている。ここで酒井はまず、「「認知」の欲望を通じて植民地主義は支配するのだ」と断定する。「植民地主義は支配する」というが、「主義」が何をどのように支配するというのか。このような非論理的な、証明しようのない独断を前提として、次に酒井は、「支配者に対する糾弾、批判、抗議の行為がすべて「求愛」の……」というのである。酒井は、日本人侵略者にたいする被侵略者のたたかいを、日本人侵略者の立場にたって日本人侵略者の論理を説明するために被侵略者の心理をかれにつごうよく解釈している。
 酒井は、「 国体(ナシヨナリテイ)は脱構築されなければならない」と語り、あたかも日本ナショナリズムを克服しようとしているかのようであるが、じっさいは、日本ナショナリズムにとらえられ、国民国家日本の過去と現在の植民地支配・侵略の事実を認識しようとしないで、いいかげんな発言をくりかえしている。酒井は、「戦前の皇民化教育」を「帝国主義的(エステテイツク)温情主義」だといい、「天皇制は平等の原則の感傷的な形象化の制度である」などといっている。

 日本の植民地支配にたいするたたかいは、「八・一五」以前も以後も、さまざまなかたちですすめられている。
 一九四二年三月一二日、金周元は、京都の民家の塀に、
    「天皇陛下を殺す」、「日本人皆殺せ」、「朝鮮大正義」
と書きつけ、不敬罪で逮捕されたという(朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』一巻、八五〇頁)。
 一九四五年六月三〇日の花岡烽起の五〇年後、一九九五年六月二八日、戦士とその遺族が、強制連行・強制労働にたいする損害賠償を要求して、鹿島建設を被告として、裁判提訴した(花岡第二烽起。一二月二〇日第一回公判)。 強制連行され北海道の強制労働の場から「逃亡」し、「八・一五」ののちなお一三年間「逃亡」しつづけた劉連仁氏が、今年三月二五日に、四万人の中国人強制連行にかんして日本国の責任を問い、日本国に二〇〇〇万円の賠償を要求する訴訟を提起した(七月一五日、第一回口頭弁論)。劉連仁氏はいま八二歳。
 一九九〇年代のはじめから、キ ムチョンミは、くりかえし、日本の侵略の時代がつづいている事実を証拠を示しつつくわしく分析し、侵略の構造のなかの「共生」ではなく、侵略の構造を破壊する共闘をよびかけている(「東アジアにおける反日・抗日闘争の世界史的脈絡」、『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』第一編、現代企画室、一九九二年。「侵略の時代をおわらせるために」、『水平運動史研究ーー民族差別批判ーー』序章、現代企画室、一九九四年。「東アジアにおけるインターナショナリズムの歴史」、「侵略の構造を破壊するために」、『故郷の世界史ーー解放のインターナショナリズムへーー』第一章、第三章、現代企画室、一九九六年)。
 「明治維新」以後、天皇制のもとに構築されてきた国民国家日本の侵略の構造を破壊する共闘をよびかけているキ ムチョンミの論述のわずかな部分をとりあげ、しかも誤解し、絓秀美は、
   「キ ムの『故郷の世界史』が重要なのは、それが、ナショナリズム=ナルシシズムの「脱
   構築」を、日本におけるポストコロニアリティの問題として、今ここで実践的に迫ってい
   るからなのだ」
と解説している(「反復されるクリステヴァ的転回」、『図書新聞』一九九六年六月八日)。
 「ナショナリズムの脱構築」をかたりつつ絓は、日本の現在の他地域・他国侵略を分析している『故郷の世界史』を、「ポストコロニアリティ」の枠内におしこめようとしている。
 藤岡信勝、和田春樹、高崎宗司らの問題は、現在の転向の問題であり、「八・一五」五〇年をすぎた現在の日本の思想・社会状況の反映である。かれらの転向・変質をもたらす土壌は、「ポストコロニアリズム」ということばがあるていど流行し、たとえば『死産される日本語・日本人』のような論著が日本人インテリに肯定的に「認知」される土壌と共通している。「ポストコロニアリズム」をかたる日本人は、「維新政府」が北海道と名づけたアイヌモシリが日本の植民地であるという歴史的事実を否定するデマゴーグであり、国民国家日本の現在の植民地支配・他地域・他国侵略を承認している。
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「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」 2

2013年12月14日 | 個人史・地域史・世界史
■二 「万人坑」のそとで
 一九三七年の「七・七事変」のあと、日本軍は、華北の各地で、抗日武装部隊の活動が活発な地域を包囲し、域内の人びとのうち青年・壮年男性を、日本あるいは中国東北部に強制連行した(陳平『千里“無人区”』中共党史出版社、一九九二年。蘇崇民・李作権・姜璧潔編著『労工的血与泪』中国大百科全書出版社、一九九五年。仁木ふみ子『無人区 長城のホロコースト』青木書店、一九九五年)。
 中国東北部に強制連行され、炭坑やダム工事で強制労働させられた人びとのうち、事故や病気や栄養失調でいのちを失わされた人びとは「万人坑」に入れられた。「万人坑」に埋められている人びとは、故郷に戻れない。そしてその人たちの死を知らない故郷の遺族にとっては、死者は死んでいない。
 一九三二年九月一六日に、中国東北部の撫順炭坑のすぐ近くの平頂山という丘陵地域の村を、日本軍(撫順守備隊)が襲撃し、おおくの住民を虐殺した。田辺敏男は、一九八八年にだした本で、この住民虐殺の責任者を撫順守備隊の中尉井上清一に限定した(『追跡 平頂山事件』図書出版社)。当時の撫順守備隊長川上精一は、田辺の妻の父であった。同書で田辺は、抗日武装部隊を一貫して「匪賊」と書いている。さらに一九九四年に田辺は、「万人坑」はなかった、と主張する本をだした(田辺敏男『朝日に貶められた現代史ーー万人坑は中国の作り話だーー』全貌社)。藤岡信勝が、この田辺の妄言を支持した。藤岡は、一九八〇年代までは日本の侵略戦争を否定していたが、数年まえに転向し、「日ロ戦争」は「祖国防衛戦争」であったなどといいはじめている(藤原彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店、一九九六年、参照)。

 一九九五年一二月三日~四日に、「女性のためのアジア平和国民基金」反対!国際会議(主催:つぶせ「国民基金」国際会議実行委員会)がひらかれ、
   「募金の推進活動に加わった個人・団体に抗議し、これ以上の・協力・を辞めるよう働き
   かける」
ことが決議された。
 「女性のためのアジア平和国民基金」と名付けられた金銭を日本国民から集め、日本軍の性奴隷とされた人びとに渡すという策動は、日本政府の歴史的責任をうやむやにし、賠償義務を免除するものである。この策動は、犠牲者、支援者の大反対だけでなく、国連の勧告(人権小委員会一九九五年八月勧告)を無視してはじめられたが、この「国民基金」を提唱する日本人のなかに、和田春樹や高崎宗司など、これまで韓国の民主化運動について積極的に発言してきた日本人学者もいた。
 今年にはいり、この「国民基金」の配分のさいに、加害者である日本人側が、性奴隷とされた人びとを「資格審査」するということが明らかにされ、さらには、中国の犠牲者も、告発を開始した一万人を越すインドネシアの犠牲者もすべて除外することが明らかになってきた。それでもなお高崎や和田らは、「国民基金」の受けとりを、韓国・台湾・フィリピンの犠牲者に迫る行為をやめようとしていない。
 いまもなお「国民基金」策動を進める者は(立場をあいまいにしてかれらを黙認する者をふくむ)、犠牲にされたアジア太平洋の民衆にたいする謝罪と賠償を拒否しつづける日本政府の機関員として、国民国家日本の侵略責任を追求するアジア太平洋の民衆に対立している。

 海野福寿は、一九九五年にだした『韓国併合』(岩波書店)で、
   「韓国併合は形式的適法性を有していた。つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配
   は国際的に承認された植民地である」
といい、日本が朝鮮を「合法」的に植民地にしたと主張した。
 当時は、「国際法」なるものは侵略諸国家が植民地を相互に分割しあう約束ごとである。海野は、これまで、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする発言をもしてきた研究者だが、なぜかとつぜん帝国主義諸国の他国侵略・植民地化の相互承認(明文化されない黙認、あるいは協約・密約という形式をとる)を、すべての国家間の法律であるかのようにいいだし、日本の朝鮮植民地化は「合法」であったと主張しはじめた(同じ一九九五年にだされた海野福寿編『日韓協約と韓国併合ーー朝鮮植民地支配の合法性を問う』〈明石書店〉で海野は、「国際・国内法上の慣習ルールに違反しながらも、・第二次日韓協約・は形式的適法性を一応備えていた」といっている)。
 日本政府が「韓国併合ニ関スル条約」への調印を大韓帝国政府に強要したのは、大韓帝国軍を強制解散させ、侵略に抗するおおくの朝鮮民衆を殺戮したあとであった。

 「八・一五」の五〇年後、一九九五年二月、日本の国会は、翌年から七月二〇日を「海の日」というあらたな日本国民の「祝日」とすることにした。七月二〇日は、王政復古の八年後、一八七六年に天皇ムツヒトがはじめてアイヌモシリに侵入して横浜に「安着」した日だという。
 日本政府は、国連海洋法条約を今年六月二〇日に批准した。この条約は、批准三〇日後に発効する。日本政府は、最初の「海の日」から、日本の領土の周辺二〇〇海里(約三七〇キロメートル)に排他的水域を設定することにしたのだ。「八・一五」以後も日本政府は、朝鮮の範囲内の独島を「竹島」と称し日本の領土であると主張しており、いまも再占領しようとしている。
 今年二月九日、日本の外務大臣池田は、「竹島は歴史的に見ても国際法上の観点からもわが国固有の領土である」といった。それにたいし金泳三大統領は、翌日に予定されていた日本の与党代表団との会見を拒否し、以後も日本政府の独島再占領準備策動に断固とした態度をとった。
 この金泳三大統領の当然の行動にかんして、山本剛士は、日本政府の独島再占領策動をなんら批判することなく、「四月一一日の総選挙での勝利を最優先課題とする大統領」の「政治手法」であると解説している(山本剛士「なぜいま・竹島・なのか」、『世界』一九九六年四月号)。
 「江華島条約」以後、朝鮮に日本人が侵入しはじめた。鬱陵島にも日本人がはいりこみ、樹木や漁業資源を奪った。鬱陵島は、その名が示すように、樹木が鬱蒼と茂っている島であった。
 一八八三年に、日本政府は鬱陵島に侵入していた日本人全員を強制的に撤退させた。鬱陵島が朝鮮の領土であり、朝鮮政府が日本人の撤退を要求したからである。日本政府はこのときも鬱陵島を朝鮮の領土であると認めていた(すでに一六九六年に、江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮領と認めていた)。
 鬱陵島から独島が見え、鬱陵島と独島は歴史的にも地理的にもひとつながりの地域である。鬱陵島が朝鮮の範囲内の島であるなら独島もまた朝鮮の範囲内なのであり、両者をきりはなして、鬱陵島を朝鮮の範囲内と認めつつ独島を日本の領土とすることはできない。
 「独島問題」についての日本人の歴史研究には、山辺健太郎「竹島問題の歴史的展望」、「竹島問題の歴史的考察」(『コリア評論』一九六五年二月号、一二月号)、梶村秀樹「竹島=独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』一九七八年九月号、日本朝鮮研究所)、堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」(『朝鮮史研究会論文集』二四号、緑蔭書房、一九八七年三月)などがあるが、梶村も堀も、日本外務省官僚のさまざまな文書(川上建三『竹島の歴史地理的研究』〈古今書院、一九六六年〉など)を実証的に批判し、独島は朝鮮の範囲内の地域であることを論証している。独島史についての、これまでのもっとも包括的な研究書は、愼廈『独島의 民族領土史 研究』(知識産業社、一九九六年)である。
 国民国家形成の過程で日本は植民地と占領地を広げてきた。日本は、一九〇五年二月、日ロ帝国主義戦争のさなかに独島を占領した。この占領は、「明治維新」以後の日本の領土拡大の一環であり、それ以前のアイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化につながるものである。日本の独島占領の二年後一九〇七年に島根県が編集発行した『因伯紀要』では、一七世紀の米子商人らの鬱陵島侵入を「朝鮮鬱陵島占領事業」と表現し、それを「快挙」としていた(内藤正中「鬱陵島と因伯」、『北東アジア文化研究』二号、鳥取女子短期大学北東アジア文化綜合研究所、一九九五年一〇月、参照)。
 現在、日本の最南端とされている二平方メートルの岩礁・沖之鳥島(その周囲五〇メートルを日本政府はコンクリートでかためている)が日本領とされたのは「九・一八事変」の二か月まえの一九三一年七月であった。
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「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」 1

2013年12月13日 | 個人史・地域史・世界史
 『アジア問題研究所報』11号(アジア問題研究所、1996年9月)に掲載された「「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」」を連載します。1996年7月に書いたものです。
                                          佐藤正人 

■「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」■
   一 アジア近現代史のなかの死者
   二 「万人坑」のそとで
   三 「戦後」・「ポストコロニアリズム」という虚偽
   四 現在の植民地アイヌモシリ
   五 日本民衆として

■一 アジア近現代史のなかの死者
 一九九四年と一九九五年に、日本で、ある集団に所属する者が、毒ガスを民衆にあびせかけるという事件があった。
 この集団の指導者は、さまざまな宗教的用語を組み合わせて「教義」を作成し、指導部を形成し、組織を拡大し、悪事をかさねた。かれが指示し、その集団の幹部らが直接殺害した人は、五〇人を越えるかもしれない。毒ガスなどの後遺症に苦しむひともおおく、子供をふくむ数万人の人びとが思想的・情緒的におおきな混迷を経験している。
 「八・一五」の五〇年後の一九九五年、この集団の指導部の犯罪を、日本のマスメディアは連日報道した。
 だが、このとき日本のマスメディアは、「皇軍」の犯罪のおおきさに、ほとんど触れようとしなかった。
 ヒロヒトを「神」であると信じさせられた日本人が、兵士として、毒ガスをふくむ近代兵器をつかい、直接アジアの民衆に襲いかかっていたとき、どれほどおおくのいのちを奪ったか。
 一九三〇年、台湾における霧社烽起のさい、霧社のひとびとに毒ガスをあびせたのは、日本人兵士であった。
 一九三一年以後、日本軍兵士は、中国の都市や農村を空爆した。日本軍は、細菌を飛行機から散布したこともあった。日本軍が散いたペスト菌によって、一九四二年に淅江省義烏市上崇村の住民三九四人が殺された(『毎日新聞』一九九六年四月四日)。「七・七事変」以後、日本軍は毒ガスをつかいはじめた。中国民衆には、日本軍の毒ガスによる被害も細菌による被害も、これまでの六〇年間ひきつづく問題であり、今後もさらにつづく問題である(紀学仁主編、村田忠禧訳『日本軍の化学戦』大月書店、一九九六年)。
 「八・一五」のとき、日本軍は大量の毒ガス爆弾を中国東北部に放置した。遺棄された毒ガス爆弾は、民衆におおきな被害をあたえた。七三一部隊の放置したペスト菌をもつ鼠は、「八・一五」ののちも中国東北部の民衆をペストに感染させて命をうばった。日本政府は、毒ガス爆弾もペスト鼠も日本にもちかえろうとはしなかった。
 毒ガス爆弾にかんして日本政府が、現地調査を始めたのは、一九九一年六月になってからであった。この調査は、日本で、サリン事件にかんする報道がさかんにおこなわれているさなかにもおこなわれていたが、この毒ガス爆弾にかんしては日本のマスメディアは極めてわずかしか報道しなかった。ペスト鼠にかんしては、日本政府はいまだいっさいの責任を回避しつづけている。七三一部隊がペスト菌を大量に生産するために使用した鼠は、日本で農家が飼育・繁殖させ、ハルビンに空輸されていた(埼玉県立庄和高校地理歴史研究部『ネズミと戦争』一九九五年)。
 「明治維新」以後、日本人は、アジアの各地に侵入し、その地の民衆におおきな災厄をもたらしてきた。国民国家日本は、アジアの民衆の生活を破壊し、いのちを奪い、資源を奪って、経済的に成長してきた。
 アジア近現代史を学ぶとき、わたしは日本人が殺害したアジアの各地の膨大な死者のことを知る。また、そのとき同時に、日本の侵略とたたかいつづけたアジアの民衆のことを知る。
 日本人近現代史研究者のもっとも重要な課題は、日本の侵略の事実を細部にいたるまで明らかにすることだ。
 だが、「八・一五」以後の五〇年間に、日本人研究者のおおくは、この課題を中心としてこなかった。
 ヒロヒトは、「東亜永遠の平和」のためと称して、日本軍の最高司令官として日本のアジア太平洋侵略戦争を主導した。日本軍の兵士の大量殺戮の最悪の責任者は、ヒロヒトであった。
 しかし、殺戮の責任はヒロヒトだけにあるのではない。日本軍の兵士は、あるときは信念、確信をもって、あるいはときに上官に強制されて、アジア太平洋の民衆に襲いかかった。
 侵略戦争のときの民衆殺戮には、それを命令したものだけでなく、個々の直接の殺戮者もその責任をとらなくてはならない。だが、「八・一五」のあと帰国した日本軍兵士のおおくは、自己の民衆殺戮の過去を家族にも語ることなく、その責任をとろうとすることもなかった。
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月塘村追悼碑建立の歴史的意味

2013年12月12日 | 月塘村追悼碑
■虐殺63年後
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたままです。
 日本敗戦の3か月半前、1945年農暦3月21日(5月2日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユエタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、住民を虐殺しました。
 その63年後、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の人びとは、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しました。

■追悼碑建立基金
 海南島近現代史研究会は、2007年8月5日の創立集会のとき、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始めることを決めました。
 その後、追悼碑建立までの間に、海南島近現代史研究会に在日朝鮮人と日本人から寄せられた基金は、72万円5千円でした。

■民衆運動のひとつの拠点
 月塘村の追悼碑建立には、朝鮮民衆と日本民衆が、協力させてもらうことができました。
 この追悼碑を拠点にして、海南島近現代史研究会は、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

■「致日本国政府要求書」
 追悼碑が除幕された日、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の全村民は、日本政府につぎのことを要求する文書(「致日本国政府要求書」)を作成しました(『海南島近現代史研究』創刊号〈2008年8月〉98頁をみてください)。
 そこで、月塘村の村人は、つぎのことを要求しています。
   1、月塘村村民虐殺を行った日本軍人の名を公布せよ。
   2、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ。
   3、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
   4、月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
   5、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 2008年4月28日に、月塘村の全村民は、海南島近現代史研究会に、「致日本国政府要求書」を日本政府に渡すことを委託しました。

 この委託を受けて、海南島近現代史研究会は、おおくのみなさんとともに、月塘村のみなさんの要求を実現していく民衆運動をつづけていきたいと思います。
                                         海南島近現代史研究会





 
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