■海南島で 11 秀田村の犠牲者
1945年7月30日(農暦6月22日)に、日本海軍第15警備隊に所属する日本兵が文昌市羅豆郷秀田村を襲撃し、村人140人を虐殺した。
秀田村の村内には、日本軍に住民がおしこまれれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されており、村はずれの大きな墳墓の前の墓碑の裏面には140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれている。
墓碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、
“1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人ほ
どのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込
め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児
童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜であった。
生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
海外の親族などが資金を寄せ、このたび墓園を重建した。
1998年12月10日 ”。
生き残った陳貽僑さん(1925年生)は、秀田村虐殺52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いた(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりである。
“秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍部隊は、16人
づつの2隊に分かれて村に侵入した。
この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ燃
えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかった。
村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分けるこ
とができなかった。
苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、ふ
たつの穴に埋めた”。
『海南陳氏譜』には、1945年7月30日(農暦6月22日)に秀田村で日本兵に殺された人たちの名が記されている。
2003年春にわたしたちが秀田村を訪問したときの報告は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2004年4月)、『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月、8~9頁)、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください。
佐藤正人
1945年7月30日(農暦6月22日)に、日本海軍第15警備隊に所属する日本兵が文昌市羅豆郷秀田村を襲撃し、村人140人を虐殺した。
秀田村の村内には、日本軍に住民がおしこまれれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されており、村はずれの大きな墳墓の前の墓碑の裏面には140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれている。
墓碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、
“1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人ほ
どのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込
め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児
童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜であった。
生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
海外の親族などが資金を寄せ、このたび墓園を重建した。
1998年12月10日 ”。
生き残った陳貽僑さん(1925年生)は、秀田村虐殺52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いた(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりである。
“秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍部隊は、16人
づつの2隊に分かれて村に侵入した。
この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ燃
えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかった。
村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分けるこ
とができなかった。
苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、ふ
たつの穴に埋めた”。
『海南陳氏譜』には、1945年7月30日(農暦6月22日)に秀田村で日本兵に殺された人たちの名が記されている。
2003年春にわたしたちが秀田村を訪問したときの報告は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2004年4月)、『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月、8~9頁)、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください。
佐藤正人