三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 14

2013年12月11日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で 11 秀田村の犠牲者
 1945年7月30日(農暦6月22日)に、日本海軍第15警備隊に所属する日本兵が文昌市羅豆郷秀田村を襲撃し、村人140人を虐殺した。
 秀田村の村内には、日本軍に住民がおしこまれれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されており、村はずれの大きな墳墓の前の墓碑の裏面には140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれている。
 墓碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、
   “1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人ほ
   どのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込
   め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児
   童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜であった。
    生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
    海外の親族などが資金を寄せ、このたび墓園を重建した。
          1998年12月10日 ”。

 生き残った陳貽僑さん(1925年生)は、秀田村虐殺52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いた(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりである。
   “秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍部隊は、16人
   づつの2隊に分かれて村に侵入した。
    この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ燃
   えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかった。
   村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分けるこ
   とができなかった。
    苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、ふ
   たつの穴に埋めた”。

 『海南陳氏譜』には、1945年7月30日(農暦6月22日)に秀田村で日本兵に殺された人たちの名が記されている。
 2003年春にわたしたちが秀田村を訪問したときの報告は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2004年4月)、『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月、8~9頁)、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください。
                                           佐藤正人
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