三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 7

2013年12月04日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で4 大溝村の犠牲者
 伍書清・伍書江口述「大難不死憶当年――我倆親歴的烟塘大溝村惨案」(瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯〈日軍暴行録専輯〉1995年9月)に、
   “1941年6月28日(農歴6月4日)午前8時過ぎ、烟塘を据点とする日本兵と治安維持会兵の
   100人余りが大石溝村を襲って、村びと38人を殺した。
    3日後、日本軍は、民工脅迫し、破壊した家の煉瓦や木材を烟塘の望楼に運ばせた”
と書かれている。
 ここに書かれている「烟塘を据点とする日本兵」とは、日本海軍海南警備府佐世保第8特別陸戦隊烟塘守備隊所属の日本兵のことであり、大石溝村は現在の烟塘鎮大溝村である。

 2003年3月に、わたしたちは、大溝村を訪ねた。
 村の入り口に「大溝懐寃紀念碑」が建てられていた。1989年10月18日に建てられたものであった。犠牲者38人全員の名前が刻まれていた。
 自宅で、黄芳蘭さん(1918年生)が、
   “当時30歳すぎだった。近くに‘慰安所’があるのを知っていたから、連れていかれるのが
   恐くて山に逃げた。わたしの2歳の子どもと、祖母が殺された。夫は‘良民証’を持っていな
   かったので屋根裏に隠れて助かった」、
と話した。
                                            佐藤正人
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