■海南島で4 大溝村の犠牲者
伍書清・伍書江口述「大難不死憶当年――我倆親歴的烟塘大溝村惨案」(瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯〈日軍暴行録専輯〉1995年9月)に、
“1941年6月28日(農歴6月4日)午前8時過ぎ、烟塘を据点とする日本兵と治安維持会兵の
100人余りが大石溝村を襲って、村びと38人を殺した。
3日後、日本軍は、民工脅迫し、破壊した家の煉瓦や木材を烟塘の望楼に運ばせた”
と書かれている。
ここに書かれている「烟塘を据点とする日本兵」とは、日本海軍海南警備府佐世保第8特別陸戦隊烟塘守備隊所属の日本兵のことであり、大石溝村は現在の烟塘鎮大溝村である。
2003年3月に、わたしたちは、大溝村を訪ねた。
村の入り口に「大溝懐寃紀念碑」が建てられていた。1989年10月18日に建てられたものであった。犠牲者38人全員の名前が刻まれていた。
自宅で、黄芳蘭さん(1918年生)が、
“当時30歳すぎだった。近くに‘慰安所’があるのを知っていたから、連れていかれるのが
恐くて山に逃げた。わたしの2歳の子どもと、祖母が殺された。夫は‘良民証’を持っていな
かったので屋根裏に隠れて助かった」、
と話した。
佐藤正人
伍書清・伍書江口述「大難不死憶当年――我倆親歴的烟塘大溝村惨案」(瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯〈日軍暴行録専輯〉1995年9月)に、
“1941年6月28日(農歴6月4日)午前8時過ぎ、烟塘を据点とする日本兵と治安維持会兵の
100人余りが大石溝村を襲って、村びと38人を殺した。
3日後、日本軍は、民工脅迫し、破壊した家の煉瓦や木材を烟塘の望楼に運ばせた”
と書かれている。
ここに書かれている「烟塘を据点とする日本兵」とは、日本海軍海南警備府佐世保第8特別陸戦隊烟塘守備隊所属の日本兵のことであり、大石溝村は現在の烟塘鎮大溝村である。
2003年3月に、わたしたちは、大溝村を訪ねた。
村の入り口に「大溝懐寃紀念碑」が建てられていた。1989年10月18日に建てられたものであった。犠牲者38人全員の名前が刻まれていた。
自宅で、黄芳蘭さん(1918年生)が、
“当時30歳すぎだった。近くに‘慰安所’があるのを知っていたから、連れていかれるのが
恐くて山に逃げた。わたしの2歳の子どもと、祖母が殺された。夫は‘良民証’を持っていな
かったので屋根裏に隠れて助かった」、
と話した。
佐藤正人