■海南島で 6 排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の犠牲者
海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述がある。
“1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺され
た。
翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほどの
日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、人口
130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺され
た。
さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
でいた”。
2002年10月と2003年3月に、わたしたちは、重興鎮を訪ねた。排田村の虐殺現場には、「血海深仇永世不忘」と書かれた追悼碑が、虐殺の22年後、1963年農歴3月16日に建てられていた。
その追悼碑の裏面には、「倭乱遇難枯骨之墓」ということばとともに、犠牲者88人の名がすべて刻まれていた。
排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
“日本軍が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。
日本軍が来たとき、父と母と自分は逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてし
まった。日本軍は子どもも殺した”
と話した。
白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていた。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていた。
昌文村の虐殺現場であった「祠堂」のすぐ近くにある犠牲者の墓前には、「惨遇日寇殺戮難胞之佳城」と書かれた墓碑が建てられていた。その裏面には、犠牲者107人全員の名が刻まれていた。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたという。
李重発さん(1936年生)は、“日本軍の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、「祠堂」の跡に近づくのがいまでもつらい”、と語った。
1941年4月12日から14日までの間に、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍海南鎮守府佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊だった。
その1か月後、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊は、1941年5月13日に瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村を、5月19日に上辺嶺村を襲って、住民を殺害した。
さらにその1か月後、1941年6月11日(農暦5月17日)朝、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊は、瓊海市参古郷上坡村に侵入し、村人を1軒の家に押し込め、銃殺し、車に積んできた石油をかけて焼き殺した。殺さなかった2人の女性を、加積(現、瓊海市)の日本海軍佐世保第8特別陸戦隊司令部の近くの「妓院」白石楼に連れていった。
“1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊は瓊海市(旧、楽会県)北岸郷の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始した。数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺された”(盧家桐・龍建武整理「日軍“三光”掃蕩 村民五百罹難 我們親歴的大洋、北岸両村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月)。
2~3歳の幼児や、85歳の老人までもが殺された。当時の村の人口は百人ほどで、村人は、“良民証”を持っていなかった。この村は共産党の村だという噂を広めた者がいて、日本軍はそれを聞いて襲ってきた(龍建武編「焚人焼家 罪悪滔天――上坡村惨案紀実」、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年8月)。
2002年10月と2003年8月に、わたしたちは、北岸村と大洋村を訪ねた。村の近くに「五百人碑」が建てられていた。
1941年8月25日(農暦7月3日)に、海南島定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の4村を襲撃し、母親に背負われた幼児をふくむ住民を殺戮したのも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)。“黄竹四村公墓”の墓碑には「一百零九」という文字が刻まれている。
日本敗戦の4か月まえ、1945年4月12日(農暦3月1日)に、瓊海市九曲江郷(旧、楽会県互助郷)坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村の9村を襲撃し、おおくの村民を殺害したのも、佐世保鎮鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊であった。
その20日後、1945年5月2日(農歴3月21日)に、万寧市石城鎮月塘村で住民190人を虐殺したのも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。
かつて日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の本拠地があり、現在日本海軍 (海上自衛隊)佐世保基地とアメリカ合州国海軍第7艦隊佐世保基地がある佐世保市内に「海軍墓地」がある。そこに、1973年9月に建てられた「海南島忠魂碑」がある(このブログの2007年2月26日の「日本海軍佐世保鎮守府 1」、2008年6月10日の「「口述史」について 12」、2010年9月27日の「証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 13」、2012年2月12日の「広東裁判」・「香港裁判」 14」などをみてください)。
佐藤正人
海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述がある。
“1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺され
た。
翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほどの
日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、人口
130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺され
た。
さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
でいた”。
2002年10月と2003年3月に、わたしたちは、重興鎮を訪ねた。排田村の虐殺現場には、「血海深仇永世不忘」と書かれた追悼碑が、虐殺の22年後、1963年農歴3月16日に建てられていた。
その追悼碑の裏面には、「倭乱遇難枯骨之墓」ということばとともに、犠牲者88人の名がすべて刻まれていた。
排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
“日本軍が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。
日本軍が来たとき、父と母と自分は逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてし
まった。日本軍は子どもも殺した”
と話した。
白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていた。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていた。
昌文村の虐殺現場であった「祠堂」のすぐ近くにある犠牲者の墓前には、「惨遇日寇殺戮難胞之佳城」と書かれた墓碑が建てられていた。その裏面には、犠牲者107人全員の名が刻まれていた。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたという。
李重発さん(1936年生)は、“日本軍の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、「祠堂」の跡に近づくのがいまでもつらい”、と語った。
1941年4月12日から14日までの間に、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍海南鎮守府佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊だった。
その1か月後、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊は、1941年5月13日に瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村を、5月19日に上辺嶺村を襲って、住民を殺害した。
さらにその1か月後、1941年6月11日(農暦5月17日)朝、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊は、瓊海市参古郷上坡村に侵入し、村人を1軒の家に押し込め、銃殺し、車に積んできた石油をかけて焼き殺した。殺さなかった2人の女性を、加積(現、瓊海市)の日本海軍佐世保第8特別陸戦隊司令部の近くの「妓院」白石楼に連れていった。
“1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊は瓊海市(旧、楽会県)北岸郷の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始した。数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺された”(盧家桐・龍建武整理「日軍“三光”掃蕩 村民五百罹難 我們親歴的大洋、北岸両村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月)。
2~3歳の幼児や、85歳の老人までもが殺された。当時の村の人口は百人ほどで、村人は、“良民証”を持っていなかった。この村は共産党の村だという噂を広めた者がいて、日本軍はそれを聞いて襲ってきた(龍建武編「焚人焼家 罪悪滔天――上坡村惨案紀実」、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年8月)。
2002年10月と2003年8月に、わたしたちは、北岸村と大洋村を訪ねた。村の近くに「五百人碑」が建てられていた。
1941年8月25日(農暦7月3日)に、海南島定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の4村を襲撃し、母親に背負われた幼児をふくむ住民を殺戮したのも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)。“黄竹四村公墓”の墓碑には「一百零九」という文字が刻まれている。
日本敗戦の4か月まえ、1945年4月12日(農暦3月1日)に、瓊海市九曲江郷(旧、楽会県互助郷)坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村の9村を襲撃し、おおくの村民を殺害したのも、佐世保鎮鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊であった。
その20日後、1945年5月2日(農歴3月21日)に、万寧市石城鎮月塘村で住民190人を虐殺したのも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。
かつて日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の本拠地があり、現在日本海軍 (海上自衛隊)佐世保基地とアメリカ合州国海軍第7艦隊佐世保基地がある佐世保市内に「海軍墓地」がある。そこに、1973年9月に建てられた「海南島忠魂碑」がある(このブログの2007年2月26日の「日本海軍佐世保鎮守府 1」、2008年6月10日の「「口述史」について 12」、2010年9月27日の「証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 13」、2012年2月12日の「広東裁判」・「香港裁判」 14」などをみてください)。
佐藤正人