三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「新北市で客家の宗教イベント 抗日戦闘の犠牲者しのぶ/台湾」

2018年08月22日 | 抗日・反日闘争
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201808180006.aspx
「フォーカス台湾」 2018/08/18 19:16
■新北市で客家の宗教イベント 抗日戦闘の犠牲者しのぶ/台湾

【写真】宗教イベント「新北市客家義民爺文化節」の様子=同市政府提供

(新北 18日 中央社)台湾北部の客家人に伝わる「義民爺信仰」の伝統を伝える宗教イベント「新北市客家義民爺文化節」が同市三峡で18~20日にわたって行われる。同市政府客家事務局の頼金河局長によると、三峡は日本への台湾割譲が決まった1895(明治28)年に勃発した「乙未戦争」(台湾平定)の戦地の一つ。戦争123周年に当たる今年、同地で犠牲になった義勇兵を悼む意味を込め、義勇軍をモチーフにしたラッピングバスのパレードが行われるという。
 頼局長によれば、三峡では同年、義勇軍が水路で南下途中の日本軍35人を待ち伏せしてほぼ全滅させた「隆恩埔戦役」と、陸路で通過した日本軍を谷間で包囲し、ゲリラ戦術で数百人の死傷者を出した「分水崙戦役」が繰り広げられた。
 義民爺信仰は、清朝時代の1787年に起こった反清蜂起「林爽文事件」が起源。客家人が多く住む北部・新竹では、故郷を守ろうと、攻めてきた林爽文軍と戦った人々のうち200人余りが犠牲となった。慰霊のための「褒忠亭義民廟」が建立され、客家人の間で、自らを犠牲にして家や郷土を守る精神を敬う信仰として定着したという。新北市の客家人は毎年、新竹県に安置される義勇軍の霊を迎え入れて参拝し、願望成就や家内安全などを願う。1997年に始まり、今年で21年目を迎える。
 イベントでは、本尊を迎え入れる儀式や法会、パレードのほかにも、物品販売、DIY教室、パフォーマンスなどが催される。
     (黄旭昇/編集:塚越西穂)


https://udn.com/news/story/7323/3315358
「聯合新聞網」 2018-08-17 18:34 中央社 新北17日電
■新北客家義民爺文化節 緬懷乙未戰爭
  新北市客家義民爺文化節將於18日至20日,在三峽客家文化園區登場,三峽是1895年乙未戰爭時,台灣人民抗日的隆恩埔戰役、分水崙戰役的地點,特別透過祭典紀念義勇軍抗日。
  新北市府客家事務局長賴金河表示,新北市義民爺祭典自民國86年開辦邁入第21年,藉由義民爺節慶活動,以科技化、在地化、年輕化形塑新北特色文化。
  賴金河表示,義民爺信仰是祭祀西元1786年的林爽文事件,英勇保鄉衛民犧牲的義勇軍,演變成獨特的台灣本土客家信仰,也是北台灣客家人重要祭典。
  延續200多年的「奉飯」習俗,是當年義勇軍出征前,地方老少挑擔奉飯供應酒食,慰問征戰的義勇軍。
  林爽文事件平定後,鄉民撿集新竹死難的客家人200多具骨骸,合葬於新竹縣新埔鎮枋寮,興建褒忠亭義民廟祭祀。每年新北市客家鄉親都會南下迎請義民爺北上祭拜,並以挑擔奉飯祭祀祈福。
  賴金河說,清廷因甲午戰爭戰敗,簽馬關條約將台灣、澎湖割讓給日本。1895年在三峽三角湧河畔所發生的乙未戰爭,包括隆恩埔戰役、分水崙戰役,是義勇軍抵抗日本的第一勝。
  1895年7月13日,日軍在推進到桃園、新竹的過程中,在隆恩埔遭遇以三峽客家籍為首的三角湧抗日義勇軍伏擊,幾乎全軍覆沒。
  在乙未戰爭中,分水崙戰役也因為義勇軍實施袋形戰術圍擊,客家義民軍由於熟悉山地地形,且採取游擊戰術,是日軍入主台北城後,規模最大,戰鬥最慘烈的一役。
  賴金河說,隆恩埔、分水崙兩戰役,是讓日本人知道台灣人民抗日決心的決定性戰役。今年是乙未戰爭123週年,新北市客家義民爺文化節將邀集高中生以彩繪公車與遊行,緬懷隆恩埔戰役犧牲的義勇軍,讓今年義民爺文化節除維持傳統,也融入青春氣息。
  18日、19日除安座、祭祀大典,還有酬神大戲、DIY活動及在地藝文表演、客家義民信仰展,闖關打卡換精美義民爺平安符。20日為陣頭送神。


https://www.nownews.com/news/20180818/2802963
「今日新聞」記者邱嘉琪╱嘉義報導 2018/08/18 16:40
■客獅傳承 中埔義民爺文化祭開鑼

【圖】嘉義縣客家文化協會義民爺文化祭百人踩街挑擔遊行,熱鬧滾滾。(中埔公所提供 , 2018.08.18)

  嘉義縣客家文化協會18日舉辦義民爺文化祭,除了傳統的義民爺文化祭儀,現場更有百人踩街挑擔遊行及大小客獅傳承,而客家會館也展出客家文化產業發展的成果,讓長輩重温昔日風華,年輕世代及非客籍鄉親身歷其境體驗客家文化與精神。
  客家對於義民信仰,最早可以溯源到清康熙60年的朱一貴事件,到了乾隆51年的林爽文事件之後,鄉民正式建廟祭祀這些為保衛鄉土社稷捐軀殉國的客家勇士,追念其忠肝義膽的精神。
  相較於早期清朝時期移民來嘉義地區定居的客家人不同,中埔地區的客家人多是北部客家人二次移民而定居於此,而在嘉義的「北部客」所信奉的神明中,「義民爺」是十分廣泛且重要的信仰。
  由於嘉義縣內並無興建義民廟,因此義民祭活動都是於嘉義市南田里的「嘉義褒忠義民廟」進行,而嘉義褒忠義民廟正是由新埔褒忠義民廟分香而來,信徒範圍包含嘉義縣市以及雲林縣、台南縣的一部份,分五區輪值值守祭典區,多數信徒為嘉義縣民,其中中埔鄉因客家居民較多,不僅分屬其中三區,還獨立負責第五區,因此,義民爺信仰可謂是嘉義縣非常重要的客家信仰文化。
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「旧日本海軍、人体で毒ガス実験」

2018年08月22日 | 国民国家日本の侵略犯罪
https://this.kiji.is/403344625467278433?c=39546741839462401
「共同通信」 2018/8/18 09:31
■旧日本海軍、人体で毒ガス実験
 防衛研究所に報告書

【写真】相模海軍工廠の報告書「除毒剤ニ関スル研究」に記された実験結果の例。「人体実験」「大水疱生ジ」などの表現がある(防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵)

 日中戦争や太平洋戦争当時に旧日本海軍が、毒ガス研究のため国内で人体を使って実験していたことが18日、分かった。皮膚をただれさせる「びらん剤」を塗るといった内容を詳述した複数の資料が、防衛省防衛研究所と国会図書館に所蔵されているのを共同通信が確認した。一部は軍関係者が対象と明記され、皮膚に水疱が生じる被害も出ていた。
 日本軍の毒ガスを巡っては、陸軍が中国大陸で戦闘や人体実験に使った記録などが一部残っている。今回の資料で海軍による人体実験が裏付けられた。専門家は、国内で米軍との毒ガス戦を想定していたことが、実験の背景にあるのではないかと指摘する。

【写真】人体を使った毒ガス実験の報告書「除毒剤ニ関スル研究」の表紙(防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081802000288.html
「東京新聞」 2018年8月18日夕刊
■旧海軍、毒ガス人体実験 国内で米軍使用に備えか

【写真】相模海軍工廠の報告書「除毒剤ニ関スル研究」には「人体実験」や「大水疱生ジ」などの表現が記されている=防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵

 日中戦争や太平洋戦争当時に旧日本海軍が、毒ガス研究のため国内で人体を使って実験していたことが分かった。皮膚をただれさせる「びらん剤」を塗るといった内容を詳述した複数の資料が、防衛省防衛研究所と国会図書館に所蔵されているのを共同通信が確認した。一部は軍関係者が対象と明記され、皮膚に水疱(すいほう)が生じる被害も出ていた。
 日本軍の毒ガスを巡っては、陸軍が中国大陸で戦闘や人体実験に使った記録などが一部残っている。今回の資料で海軍による人体実験が裏付けられた。
 中央大の吉見義明名誉教授(日本近現代史)ら複数の専門家は、初めて見る資料とした上で、国内で米軍との毒ガス戦を想定していたことが、実験の背景にあるのではないかと指摘する。
 防衛研究所は、海軍で毒ガス兵器の研究開発を担った技術研究所化学研究部(神奈川県)と、これが改組された相模海軍工廠(こうしょう)化学実験部(同)の報告書を複数保管する。びらん剤のイペリットやルイサイトを除毒する薬剤開発に関する内容。
 このうち相模海軍工廠が一九四四年にまとめた「除毒剤ニ関スル研究」という報告書は、開発した薬剤の効果を人体で確かめる実験を記述。イペリットを腕に塗り薬剤で洗ったり、イペリットを染み込ませた軍服の布地を薬剤で洗った後、人の皮膚に付けたりして観察した。大きな水疱ができた人がおり、一部の実験は軍関係者が対象と記している。表紙には「秘」「処理法・用済後焼却要通報」との表示がある。
 毒ガスを人に吸わせる実験の論文が国会図書館にあることも判明。「ガス検知ならびに防御に資する」目的で四一年に実施した実験では、くしゃみ剤や嘔吐(おうと)剤と呼ばれた種類の毒ガスを吸わせ、感知までの時間を調べた。
 吸入実験の対象は少なくとも十六~三十九歳の八十人だが所属は不明。健康被害はなかったとしている。著者は舞鶴海軍病院(京都府)などに所属した軍医で海軍省教育局の「秘密軍事教育図書」とされていた。
 別の海軍軍医が、理論的に耐えられないとされる濃度のガスを吸わせるなど、人を使い「幾多の実験」をしたとの先行研究が引用され、実験を繰り返したことがうかがえる。

【写真】報告書の表紙=防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵

◆陸軍も兵士に体験
 <「日本軍の毒ガス兵器」の著書がある歴史研究者松野誠也さんの話> 海軍は戦争末期、米軍が先制的な毒ガス戦に踏み切ることを恐れ、報復用にイペリット爆弾の大量生産を進めていた。切迫した状況下、米軍に使われた場合の備えとして除毒剤の開発を進め、人体実験で治療効果の確認をしたと考えられる。陸軍も教育で兵士に毒ガスを体験させていた。当時は兵士の人権に配慮しておらず、海軍も「この程度なら問題ない」という認識で実験したのではないか。

★旧日本軍の毒ガス
 敵を殺したり戦闘能力を失わせたりするのが目的で、複数の種類があった。びらん剤は皮膚をただれさせ、目や呼吸器にも被害を与える。このうちイペリットはマスタードガスとも呼ばれる。くしゃみ剤(嘔吐剤)は目や喉に激しい刺激を生じさせる。高濃度だと嘔吐や呼吸困難に陥る。肺の障害を引き起こす窒息剤や、細胞の呼吸を阻害する血液剤もあった。国内の製造工程で多くの健康被害を出した。中国大陸には大量に遺棄され、戦後、流出による被害が報告されている。化学兵器禁止条約で日本に廃棄処理が義務付けられ、作業が続いている。


https://nikkan-spa.jp/1429177
https://nikkan-spa.jp/1429177/2
「日刊SPA」 2017年11月14日
■戦時中に製造された「毒ガス弾」、現在も放置されたままに…

【写真】旧日本軍の毒ガス製造に使われたガスマスク(陸軍の毒ガス工場があった広島県・大久野島で使われていたもの)。

 かつて神奈川県平塚市と寒川町には、旧日本海軍の「秘密毒ガス工場」があった。一帯には今も毒ガスが遺棄されたままになっているという。その場所とは、寒川町岡田にある全長3kmの地下壕だ。道路沿いに木立の生い茂った斜面が続いている。草むらの中に入ると、土嚢で蓋をされた壕の入り口が2つ見えた。
 「毒ガス遺棄についてお年寄りに詳しく聞こうとすると、『(戦前に憲兵が使用した)縄手錠をかけられる』と、なかなかしゃべってくれません」と語るのは、2003年にこの地下壕を発見した化学兵器被害解決ネットワークの北宏一朗氏。

★かつては約3000人が毒ガス製造に従事

【写真】毒ガス弾が発見された寒川町の現場。現在は高速道路の高架下で、フェンス沿いは処理されたが、その左側は未処理のまま。

 戦前、海軍の毒ガス工場(寒川の相模海軍工廠、平塚の海軍技術研究所)には最大3000人が毒ガス製造に従事していた。
 「平塚の工場に勤務していた大佐の手記では『国民総武装兵器特殊地下壕』と呼ばれていたそうです。壕は相模湾から上陸した米軍を迎え撃つ、毒ガス兵器を使った本土決戦のための地下施設として、毒ガスを製造し稼働していました」。
 寒川の工場の敷地を横切る道路の建設中、作業員が深さ2~3mの場所からビール瓶を掘り出したのは2002年のこと。中身は皮膚や呼吸器系統に炎症を引き起こす、びらん性の毒ガス、イペリット(マスタードガス)が入っていた。

【写真】寒川町岡田の地下壕の入り口は、今は土嚢袋でふさがれている。道を挟んで住宅が立ち並び、地下壕の上は畑と県営住宅になっている。

 「工場では戦前、ビール瓶に毒ガスを詰め、手投げ弾として生産していたんです。掘り出された毒ガス弾は最終的に802本。そのとき毒ガスを吸った11人に、発疹などの症状が出ました」。
 毒ガスに半減期はなく、何十年経っても「兵器」として偶然発見した人に襲いかかる。
 「作業員たちは自律神経にダメージを受け、視野狭窄のほか気管支を損傷したり、慢性的な下痢になったりしました。登山家でもあった頑強な作業員の一人は、事故後やつれはてていました。それなのに国は因果関係を認めず、一切対応しようとしない」と北氏は憤る。

★戦後、忘れ去られた毒ガスの存在

【写真】掘り出された硫酸ビンの毒ガス手投げ弾。土壌からはマスタードや青酸も検出された

 毒ガスは、第一次大戦中にドイツ軍がマスタードガスを用いたのが始まりだ。旧日本陸軍は瀬戸内海の大久野島で毒ガスを極秘生産し、中国大陸で使用した。マスタードガスより即効性のあるびらん剤のルイサイト、くしゃみ剤(嘔吐剤)、催涙剤、窒息剤のホスゲン、血液成分に作用する青酸ガスなど、さまざまな毒ガスが作られた。
 「主に本土決戦用に作られた海軍のマスタードガスは1944年には190tが生産され、中国大陸で使う陸軍の生産量を上回りました。それが地下壕に備蓄され、敗戦とともに忘れ去られたのです」。

【写真】平塚の現場。平塚市の市営図書館駐車場のアスファルトの下には、今も毒ガスが眠る。指さすのは北氏

 平塚の工場北側では井戸水調査で毒ガス生産の副産物であるモノフェニルアルシン酸が検出され、2008年までに環境省が2000tの汚染土壌を運びだしている。
 「その汚染土壌をどこに移したのか、環境省は明かさない。また、旧軍の生産した毒ガスにはすべて不凍剤としてヒ素が入っていて、最新の焼却炉でも処理できないんです。多くの毒ガス遺棄地で、地下水への影響が懸念されています」
 この寒川・平塚だけでなく、全国各地に化学兵器が遺棄されている。その中には情報が不正確なものも多く、まだまだ今後も見つかる可能性があるのだ。

     取材・文・撮影/宗像充  写真/北宏一朗 時事通信社
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