三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「「韓国のヒロシマ」から 原爆忌に考える」

2018年08月06日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2018080602000108.html
「中日新聞」 2018年8月6日
■【社説】「韓国のヒロシマ」から 原爆忌に考える
 広島、長崎、そして韓国の原爆資料館。被爆者の命の証しに触れる場所。伝えたい言葉はきっと同じです。「過ちを二度と繰り返してはなりません」-。
 慶尚南道陜川(ハプチョン)郡-。釜山(プサン)から北西へ車でおよそ二時間半。山間にたたずむ人口六万人ほどの小都市は「韓国のヒロシマ」とも呼ばれています。
 広島と長崎の被爆者の約一割が、朝鮮半島出身者。広島で三万五千人、長崎では一万五千人が、あの原爆の犠牲になりました。
 韓国人被爆者の六割が、陜川出身だったと言われています。現在韓国国内には、約二千五百人の被爆者が住んでおり、うち約六百人が陜川で暮らしています。
 日本の植民地支配下で、陜川から釜山、釜山から長崎や下関に至る陸路と海路が整備され、徴用や徴兵だけでなく、同郷のつてを頼って多くの人が、職を求めて家族とともに、長崎の造船所や広島の軍需工場などに渡ったからでもありました。
 その「韓国のヒロシマ」に昨年の八月六日、陜川原爆資料館=写真=が開設されたのです。
 日本円で二億数千万円の建設費には、主に韓国の宝くじ基金が充てられました。
 延べ床面積約五百三十平方メートルの二階建て。一九九六年に日本からの支援で建てられた被爆者の療養施設「原爆被害者福祉会館」の隣に並んでいます。
 一階が展示室。核関連の詳細な年表や被爆直後の惨状などの写真パネルが掲げられ、原爆の構造を示す模型や、被爆者が持ち帰った愛用品や証明書類が展示されています。♪核のない世界がほしい…と繰り返す子どもたちの合唱が、ビデオ画面から聞こえてくるのが印象的でした。
 二階には、被爆者が日本で愛読した本や、数次にわたる実態調査の分厚いファイルが並ぶ資料室。書物の中には「はだしのゲン」もありました。
 韓国原爆被害者協会陜川支部の聞き取り調査は続いています。というよりも、被爆一世の高齢化が進み、記憶が薄れていく中で、一層力を入れています。
 どういう経緯で日本に渡ったか、被爆当時は何をしていたか、いつ、どのようにして、陜川に帰ってきたか、帰国後障害は出ているか…。面談を重ねて書き取ったり、自ら書いてもらったり-。
 韓国の被爆一世、二世も今もなお、原爆の放射能が、自身の健康や子孫に及ぼす影響を恐れて生活しています。

★人は過ちを繰り返す
 戦後、やっとの思いでふるさとへ帰りついたのに、周りから「自業自得」と非難を受けた人たちも、少なからずいたそうです。固く口を閉ざすのも、無理からぬことでしょう。
 日本で生まれ育った被爆者には「悲しいくらい日本語が上手」と言われても、ハングルが書けない人がいます。難しい調査です。
 それでも「原爆のあるところには、戦争が必ずつきまとう。事実を超える真実を伝え残しておかないと、人は過ちを繰り返す」という信念が、支部長の沈鎮泰(シムジンテ)さんらを支えています。
 沈さんは二歳の時、広島市内で被爆しました。原爆の記憶はほとんどありません。後遺障害も出ていません。
 しかし、記憶の底に刻まれた“ピカドン”への恐怖が消え去ることもありません。
 沈さんは資料館の建設に二千万円相当の私財を投じています。
 「“事実を超える真実”とは何ですか」と尋ねると、沈さんは「例えば、二十数万人が原爆の犠牲になったという数字は事実。真実とは被爆者一人一人の人生そのものだと思う-」と答えてくれました。
 私たち自身が想像力を働かせ、その中から、くみ上げるべきものなのでしょう。
 核兵器の恐ろしさ、戦争の愚かさ、悲しさなどを。

★記録にとどめ何度でも
 真実を伝え残していかないと、人は過ちを繰り返す-。それは「国」も同じでしょうか。
 夏休み。重い宿題を出されたような気がしています。
 仮にも“エリート”と呼ばれるほどの人たちが、大切な公文書をいともあっさり改竄(かいざん)したり、隠蔽(いんぺい)したりできる国ならなおのこと。原爆や戦争の真実を掘り起こし、記録にとどめ、繰り返し、繰り返し、繰り返し、伝えていかねばならないと。


https://this.kiji.is/399023937232454753?c=39550187727945729
「共同通信」 2018/8/6 11:36
■韓国でも原爆犠牲者慰霊
 被爆者暮らす南東部の陜川

【写真】韓国・陜川で行われた原爆犠牲者らの慰霊式=6日(共同)

 【陜川共同】広島への原爆投下から73年の「原爆の日」を迎えた6日、被爆者が多く暮らしていることから「韓国のヒロシマ」と呼ばれる韓国南東部・陜川で、原爆犠牲者の慰霊式が開かれた。
 韓国の被爆者でつくる「韓国原爆被害者協会」は北朝鮮に暮らす被爆者との交流を目指す趣旨のメッセージを発表予定。
 慰霊式は日本政府の支援で建設され、約100人の被爆者が暮らす「陜川原爆被害者福祉会館」で開催。敷地内に陜川出身の被爆者ら約千の位牌が納められたほこらがあり、周囲に会場が設営された。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21626.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-15 16:48 修正:2015-08-16 07:47
■[ルポ]韓国の広島と呼ばれる陜川の原爆被害者

【写真】陜川原爆被害者福祉会館近くの慰霊閣には1057位の原爆犠牲者の位牌が奉られている。6日、原爆被害者のお年寄りが位牌を見つめている=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 長崎県の軍艦島であった朝鮮人強制労働とその後に続く原爆被害の歴史を扱った長編小説『カラス』の著者ハン・スサン氏(69)が、5日から6日にかけ“韓国の広島”と呼ばれる陜川(ハプチョン)を訪ねた。韓国原爆被害者協会によると、原爆被害1世は現在2584人が生存している。しかしより大きな問題は2世だ。2002年に亡くなったキム・ヒョンニュル氏の奮闘により作られた韓国原爆2世患友会の様々な努力にもかかわらず、韓日両政府は今も2世の被害を認めていない。

 韓国の被曝者数は世界で2番目
 生存者2584人、平均年齢82歳
 70年に及ぶ苦難に耐え抜いた彼らを
 70周年の原爆犠牲者追悼祭が開かれた
 陜川の福祉会館で会った

 陜川市内を流れる黄江(ファンガン)が音もなく闇の中に包まれようとしていた。8月5日夕方。黄江の川辺にある公園では、被曝70年を記念して非核・平和を求める公演が開かれていた。
 その日の早朝、陜川に向かう時に見たソウル・光化門(クァンファムン)の街には、「偉大な旅程。 新しい跳躍」「あなたが歴史であり未来です」という横断幕が、ビルの壁を覆った大型の太極旗(韓国国旗)と一緒になびいていた。連休だというのに高速道路はガランとしていた。ふと自分自身に尋ねてみた。私は今どこに行こうとしているのか。私が進もうとする道は決して“偉大な旅程”ではなかった。“70年の忘却”を探し求め、この70年に及ぶ辛苦を耐え抜いた韓国の原爆被害者に会うため向かおうとしていた。
 1945年8月6日に広島、9日に長崎に投下された原爆で4万人の韓国人が爆死し、3万人が重軽傷を負って帰国した。しかし、悲しいことに数万人というこの数字も、日本の市民団体や人権運動家による推定値に過ぎない。数万人もの私たちの国、私たちの民族の人たちが命を奪われたというのに、0000と表記されるだけで、千桁と百桁の数字さえもない。正確な数字も把握できないまま、いや、なにもしないまま私たちは70年を過ごした。
 4時間かけ陜川に向かう途中、同行した写真家に海印寺(ヘインサ)はどこにあるのか尋ねると、海印寺は「88高速道路」から高靈(コリョン)を抜けて行くというではないか。小学校の時から陜川・海印寺・八万大蔵経と一緒に覚え、陜川のどこかに海印寺があると信じて育った私はなんだったのか。

★被曝2世の心臓系疾患は一般人の89倍
 海印寺のない陜川で私を迎えたのはぐらぐら煮え立つような暑さだった。眩しい日差しが皮膚を焼くように照りつけていた。福祉会館を見回し、被曝者に会う最初の一歩を踏み出した。
 1996年に韓日両政府が基金を支援して設立された「陜川原爆被害者福祉会館」も、いつのまにか20年の歳月が過ぎた。長い沈黙の後に韓日両政府がそれぞれ40億円を出捐し、韓国の原爆被害者福祉事業に合意したのが1990年5月。しかし基金管理を大韓赤十字社に任せ、この福祉会館が開館するまではさらに6年も待たなければならなかった。
 林の中にある福祉会館は外観も内部も清潔だった。「すべて気楽で、自分の家も同然。よっぽどいい」。93歳のユ・グッジャさんは感謝の気持ちを、そう表現した。両親に連れられて広島に移り住み、18歳で結婚したユさんは被曝当時、4歳の赤ん坊の母親だった。

【写真】70周年原爆犠牲者追悼祭を終え参加者が平和祈願の紙飛行機を飛ばす様子=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 大腿部無血性壊死症という病気に罹り
 人生を犠牲にした被曝2世ハン・ジョンスンさん
 脳性麻痺の息子まで世話する二重苦
 絶望の泥沼から手術を受けて立ち上がり
 他の被曝2世患者のための活動開始

 93歳の年齢を感じさせないほどユさんはしっかりしていた。花柄の刺繍がされた白い麻で織ったチョゴリを着ていたユさんは、「本当にきれいですね」と私が語りかけると声を出して笑った。こんなきれいな服をどこで手に入れたんですかと尋ねると、ユさんしっかりした声で答えた。「私が買ったのよ。市場に行って私が選んだ」。療養院から市内まで一日3回シャトルバスが通うと言った。
 両国政府が努力した結実ではある。しかし残念でならない。定員110人の福祉会館には、現在も入院を希望する待機者が110人にもいる。
 陜川を流れる黄江の川辺にある野外公演会場で開かれている非核・平和の集会に向かった。
 エルサレムにあるユダヤ人虐殺記念館の名は、犠牲者の名前を忘れるなという意味の「ヤド・ヴァシェム」だ。今回の行事も「原爆被害者、あなたを記憶します」というスローガンを掲げている。
 深まる夏の夜、「作ります、核のない世の中」という行事で子供たちが歌う反核の歌が黄江の川辺の空に響いていた。
 ドイツのワイマール市郊外にあるブーヘンヴァルト・ユダヤ人強制収容所へ連合軍が進入する際に同行した米誌ライフの女性写真家、マーガレット・バーク=ホワイトが撮った写真の中には、骨と皮だけに痩せこけた体で横たわっている人々が写っている。2段目の寝床の左から6番目に横たわっていた人が、後にノーベル平和賞を受賞するルーマニア生まれの米国のユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼルだ。ヴィーゼルはこう語った。「ホロコーストを否定することは彼らを二度殺すことになる」。そこで尋ねねばならない。私たちは無関心という名のもと、二度ばかりか70年も被曝者を殺してきたのではないか。
 世界で2番目に多くの被曝者を持つ国が韓国だ。韓国原爆被害者協会によれば、現在の生存者は2584人。平均年齢が82歳になる彼らは、今日も放射能後遺症を背負って生きている。
 2004年、国家人権委員会は韓国の原爆被害者の基礎状況と健康実態の調査を通じて、被曝1、2世は劣悪な健康状態と社会的疎外の中にあり、立法対策と詳細な調査が迫られると提案した。調査では驚くべきことに、被曝1世が一般人よりうつ病が93倍、造血系癌が70倍も多く発生していると指摘された。
 2世の被曝はさらに絶望的な状況にある。一般人より心臓系疾患で89倍、貧血で88倍、白血病で13倍も病んでいるという。
 驚くべき数値だ。短期間の調査でこんな有様なのに、国家次元の実態調査や医療支援が一度もされないまま、被曝者は苦痛を受け継ぎ生きている。こうして70年が過ぎ去った。
 原爆被害者とその子供を支援するための特別法案は2012年以降4件も発議されたが、自動廃棄され法制化されなかった。19代国会でも関連法案が発議され小委で繫留中だが、展望は暗い。今国会で再び自動廃棄されれば、この痛恨をいったいどうしたらいいのか。こうして70年が過ぎ去った。
 2003年から原爆被害者1世たちが日本から受けている援護手当てがある。これも徴兵1期生として広島に連れていかれ被曝したクァク・キフン氏が、長い法廷闘争の末に勝ち取った結果だ。歴史認識問題での闘争で一線を画す勝訴を導いたクァク氏の労苦は偉大なものだった。クァク氏が長く辛い闘いを続ける間、我が国の政府の外交的支援や援助は一度もなかった。こうして70年が過ぎ去った。
 現在の韓国の29種ある中高校歴史教科書のうち、日本に原爆が投下されたという事実だけでなく、韓国人被曝者について言及した教科書は斗山東亜が出版した一つしかない。こうして70年が過ぎ去った。被曝者の生き延びてきた残酷な70年の旅程である。

★生活の中の核にも戒めを

【写真】被曝2世患者のハン・ジョンスンさん。彼女にとって原爆の苦痛は現在進行形だ=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 被曝2世の患者のハン・ジョンスンさん(59歳)。光復節(解放記念日)は彼女にとり今年も喜べない日だ。ハンさんの日帝強制占領期間の苦痛は今も現在進行形だ。彼女が語ってくれた事情、その切実さと数奇さは、話を聞いていた時もそうだったように、文章にするのにも苦痛が伴った。
 日帝強制占領期間の収奪で生活の基盤を失い、広島に渡った両親は、その広島で原爆に遭う。当時妊娠中だった母親は崩れた建物で腰に大怪我をした。生き残れた両親は故郷の陜川に戻れたが、その時から被曝の苦痛が始まった。
 「私は2男4女の5番目です。一番上の兄は誕生日が過ぎて幾日もしない間に亡くなり、私は幼い時から足の痛みで苦労しました。被曝後遺症が私にも現れたのでしょう」。病名も分からぬ足を使えない症状のため、職場生活を続けることもできなかった。そして結婚して最初に産んだ息子は脳性麻痺だった。
 さらに兄弟姉妹の4人に紅斑という、肉が卵ぐらい腫れ上がる病苦が襲う。その後も「大腿部無血性壊死症」という奇異な病気が彼女を打ちのめした。大腿部の関節が壊れ、歩くこともできない体で脳性麻痺の息子の世話をして生きていかねばならなくなった。歩くことができないから、家でも両手で体を引っ張り這って動かなくてはならない。脳性麻痺の息子のためにラーメンを作ってあげても、手のひらから流れる血を部屋じゅうに塗りつけながら体を引っ張っているうち、いつの間にかふやけてしまったラーメンを見て何度泣いたかしれない。
 これ以上どうにも生き続けることができない絶望の泥沼の中で手術を受けたのが、93年だった。人工関節をつけ、驚くべきことに立ち上がり、歩き、走ることさえできるようになった時、彼女は決心した。これからの自分の人生はおまけに過ぎない。少しでも力があるなら、人のために生きていこうと。

 「本当に辛い日々だったので、私には辛さがどんなものであるのかがよく分かります。『私が人を慰めることさえできれば!』という切実な思いがありました」。
 辛い思いをしている人のために生きることを決めた彼女が探しだした道は、病院の看病人になることだった。「自分が辛かったので人の辛さが分かる」という考えはそれに留まらなかった。世間に向かって自分と同じ被曝2世の患者のための活動を始め、陜川を震源地とする反核運動にも参加した。
 陜川福祉会館で暮らす89歳になる母親は、帰国して産んだ初子が原爆のために死んだと話したことはない。
 「原爆のためじゃない。赤ん坊は飢えで死んだ。そう話したお母さんの血の滲むような胸の内が私には分かります。被害を受け継がせたくない血の涙を」。被曝者の苦痛が繰り返されない対策を用意するため「韓国原爆2世患友会」の会長を引き受け東奔西走した。組織は被曝2世の対策を訴え35歳の短い命を終えたキム・ヒョンニュルさんが2002年に設立した。
 彼女は語る。 「福島原発事故、古里(コリ)原発と密陽(ミリャン)送電塔、中国に増設される原発などを見ていると、私たちと同じ被害者が生まれるかと思い怖くなります。戦争だけでなく、生活の中にある原子力に対しても警戒心を持つべきです」。肉体的な苦痛と障害者の子供を持つ凄惨な人生を母性愛で克服し、個人の悲劇と絶望を越え「共に行動する」連帯の真の意味を発見したハン・ジョンスンさん。苦痛を強いられる者どうしが苦痛を分け合うのも治癒の一つであることを見せてくれる人生の軌跡は、私たちに強く問いかけてくる。被曝2世の問題を個人の悲劇で終わらせてはいけないと。遅くなったが今からでも国家が動かなくてはならないと。
 彼女は今でも体を動かすことができない30歳の息子を世話して生きている。陜川の夜はこうして深まった。

★忘却で封印された無関心の70年
 耳が遠くなりそうな暑さの中を突き抜け、喧しく鳴き続けるセミの音だけが生きているように感じられた。1945年のその日、広島と長崎でもセミはこんなふうに鳴き続けていたという。
 70周年原爆犠牲者追悼祭が福祉会館そばの慰霊閣前で始まった。慰霊閣には1057位の原爆犠牲者の位牌が奉られている。追悼式場の近くでは被1世たちが治癒プログラムで描いた絵がかけられ、その日の記憶を蘇らせていた。
 質素な追悼祭が進められる時、慰霊閣に掲げられた「解冤(命の冤と恨を解くこと)を越え平和の丘に」という標語を見つめた。慰めになる言葉だった。私たちの想いは人類の平和のための念願であるからだ。
 追悼祭を終え陜川を離れるのに先立ち、最後に「陜川平和の家」に向かった。原爆被害者たちのための憩い場として出発したこの施設は、非核・平和運動にも力を注いでいる。一人の僧侶の情熱と労苦が作り出した場所である。

【写真】右から2人目がハン・スサン氏=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 2世の患者のための治癒プログラムを調べる間、事務総長のイ・ナムジェ氏が女性チーム員と交わす話が聞こえた。現実的な困難と限界でお手上げだと話す彼女を、イ氏はこう諭していた。
 「やっとここまできたじゃないですか。最後までやり抜きましょう。頑張って!」。そう。冷遇と無視の中、それでもここまでやってきた。決して諦めない情熱が希望の火種となるはずだ。
 “私たちの忘却”より問題なのは“彼らの歪曲”だ。失われる前に正確な資料を集め、被害者の証言を記録して永遠に残さなければならない。陜川郡が主導する原爆記念館設立が表面化しているという便りもある。これも希望の火種ではなかろうか。
 日帝強制占領期間を扱った私の小説『カラス』の悲劇は、過ぎ去った話ではなく今も綿々と続いているのかも知れない。あらゆる歴史の苦痛を担って生き続けなければならなかった被曝1世、終わることのない『カラス』の悲劇を続ける2世に、“忘却”で封印された冷遇と無関心の70年から抜け出し、「あなたがたは一人じゃありません」と力強く手を差し出すことができる日は、いつ訪れるのか。

ハン・スサン/小説家
韓国語原文入力:2015-08-14 19:39
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/704529.html
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「韓国・長城に「平和の少女像」 来月の慰安婦記念日に除幕式」

2018年08月06日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/07/29/0200000000AJP20180729000100882.HTML
「聯合ニュース」 2018/07/29 09:51
■韓国・長城に「平和の少女像」 来月の慰安婦記念日に除幕式
【長城聯合ニュース】韓国南西部の全羅南道・長城に、旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」が来月、設置される。長城郡の設置推進委員会が29日、明らかにした。

【写真】ソウル日本大使館前の「平和の少女像」=(聯合ニュース)

 除幕式は来月14日、長城駅の広場で行われる。韓国はこの日を元慰安婦をたたえる法定記念日と定めており、これに合わせて設置するもの。
 少女像はソウルの日本大使館前に設置されているものと同じ。設置場所は郡が無償で提供する。除幕式後は「公共造形物」に指定される。
 長城郡のほか、ソウルや全羅北道の市民団体も来月14日の除幕を目指しそれぞれ設置を推進している。
 旧日本軍の慰安婦被害者を支援する市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」によると、今年3月末現在、全国に設置された少女像は102体。


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/07/31/0200000000AJP20180731004500882.HTML
「聯合ニュース」 2018/07/31 19:15
■慰安婦被害者の痛み共有 5カ国・地域の若者参加し大会開催=韓国
【昌原聯合ニュース】韓国の市民団体「日本軍慰安婦のハルモニ(おばあさん)と共にする馬山・昌原・鎮海市民の集まり」は31日、旧日本軍の慰安婦問題について考える「日本軍慰安婦の歴史課題のための国際青少年大会」を8月2日まで慶尚南道昌原市のホテルで開催すると明らかにした。

【写真】「人権自主平和の誓い碑」(資料写真)=(聯合ニュース)

 慶尚南道庁の後援を受けて30日に開幕したこの大会には、韓国をはじめ米国、台湾、フィリピン、日本の5カ国・地域から青少年約70人が参加した。
 参加者らは初日に開かれた懇談会で、韓国人慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さんの証言に耳を傾けた。また、昌原大のイ・ジョンウン教授(社会学)による「日本軍慰安婦被害者を記憶すべき理由」と題した講演を聞いた。
 2日目の31日には慰安婦被害者をテーマにした映画「雪道」(原題)を鑑賞し、グループディスカッションを行ったほか、各国・地域の慰安婦問題に関する活動の紹介などを行った。
 8月1日午後には昌原市内の「人権自主平和誓いの碑」の前で追悼文化祭を開き、最終日の2日には慰安婦問題解決を求める内容の決議文を採択する予定だ。 
 「市民の集まり」のイ・ギョンヒ代表は「5カ国・地域の若者が集まり、痛みの歴史を共有して記憶することに大会の意味がある」とし、「最終日には若者世代が慰安婦問題の解決のためにどのような課題を実践できるかという内容の決議文を発表する計画だ」と説明した。


http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/1407869/1
「東亞日報」 July. 31, 2018 09:28
■40年ぶりに再び、「沖縄のハルモ二」の叫び
 「私は従軍慰安婦だった」

 1991年8月、故・金学順(キム・ハクスン)さん(1924~1997)がこのように辛い過去を証言し、大きな反響を呼んだ。しかし、これに先立ち75年10月、沖縄に裵奉奇(ペ・ポンギ)さん(1914~1991)がいたことはあまり知られていない。70年代に山谷哲夫(71)監督が裵さんをインタビューした記録映画『沖縄のハルモ二』を知る人はさらに珍しい。7日、この映画が東京・渋谷の小規模の映画館で上映された。
 裵さんが望んで過去を明かしたわけではなかった。44年から沖縄の孤島、渡嘉敷島で慰安婦を強要され、終戦を迎えた。故郷に帰ることができず、75年に不法滞在で強制追放されそうになり、当局に理由を明らかにした。特別永住の資格を得た後、地元の新聞に仮名で応じたインタビューで、「戦場でのことが恥ずかしく、故郷に帰ることができなかった」と語った。
 78年、山谷監督が訪ねたとき裵さんは、サトウキビ畑の真ん中の2坪もない納屋のような家で、一人で暮らしていた。「仕事もせず金を稼げる所に行かないか、とだまされた。船に乗った後、沖縄に行くと聞かされた」。裵さんは、一緒に行った朝鮮の女性6人と慰安所で過ごす間、「アキコ」と呼ばれた。兵士の中には時々チップや石鹸をくれる人はいても、管理者から金をもらうことはなかった。
 映画は、渡嘉敷島の慰安所跡も訪れた。慰安所の隣に住んでいた43歳の男性は、「私はその頃、8、9歳だったので、意味がわからなかった。後に慰安所だったことを知り、気の毒に思った」と話した。男性の69歳の母親は、朝鮮人慰安婦7人の名前を一人一人挙げ、彼女たちは「こんなはずじゃなかった」とよく泣いた、と伝えた。「食堂で仕事をすると思って来たのに、あんなことをするなんて、本当に哀れだった」。
 山谷監督がこの映画を撮った70年代は、慰安婦問題に関心が持たれる前だった。元慰安婦女性をうわさをたよりに捜して出会ったチェ・チャンギュ元建築家協会会長(当時59歳)は、「私と同じ年頃の日本の男性たちが真相を知りながら、何もなかったように口を閉ざすのが残念だ」とし、自身が見聞きした慰安所の実状を証言した。
 『沖縄のハルモ二』は最小限の編集だけのドキュメンタリーだが、7日の上映会は58席全席が完売した。観客の外山小粋さん(23)は、「戦争が女性にどのように見えない暴力を行使し、その暴力が戦争が終わった後もどのように続いたか知ることができた」と話した。ドキュメンタリー映画を作っているという都鳥拓也さん(35)は、「このような記録が残っていて、まだ見に来る人々がいることは驚くべきだ」とし、「映画の存在はあまり知られていないが、日本の若い世代が見る機会が増えればいい」と話した。
     徐永娥 sya@donga.com
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