武蔵には関係がない米田神社の余話です。
米田天神社は、菅原道真を祭る神社にあらず
「・・・米田天神社の旧社殿は、江戸時代のはじめに、宮本伊織が泊神社の後修復されました。米田天神社の修復は、承応二年(1653)に完了しています。
以下『高砂市史(第二巻)』から引用します。
「・・・米田天神社の主神は少彦名命(スックナヒコナノミコト)であるが、天神社の名称のためか、古くから誤って天満官と称されることもあって、天満宮と称されることもあった。
(宮本)伊織も、泊神社の棟札で祭神を菅神すなわち菅原道道真と記している。・・・・」
つまり、米田天神社は、現在の加古川市木村の泊神社を江戸時代の初め伊織がこの地にあった神社の修復をしています。
米田天神社の祭神は、菅原道真ではありません。
しかし、なぜか誤解され天神社と呼ばれ菅原道真を祭る天満宮とされていたようで、拝殿の前に菅原道真」を祭る天満宮のシンボルである臥牛(がぎゅう)がどっかりと鎮座しています。
さすがに現在は、臥牛があるものの米田天神社は天満宮としていませんが、菅原道真に寄せる当時の村人の願いを想像します。
菅原道真は農業(水)の神
江戸時代の初め、しばしば大旱魃に襲われました。特に、米田天神社がつくられた少し前の承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。人々は餓えてさまよいました。
こんな時、人々は、神に祈るより方法はありません。雨の神・菅原道真にいのりました。
菅原道真は、学問の神様であるとともに、百姓にとっては農業の神様でした。
詳細は省きますが、道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。
江戸時代の始め、米田村の百姓が菅原道真にかけた思いを想像してしまいます。
(no2904)
*『高砂市史(第二巻)』参照
*写真:米田天神社