話題を変え、時代も一挙に現代(明治以降)へ移ります。
きょうのブログには、あまり中島・今市は登場しません。
日本農民組合、神戸で誕生
大正7(1918)年に起きた米騒動は日本の杜会運動動に大きな影響を与えました。
さらに、第一次世界大戦後のロシア革命の思想的影響もあって多数の労働組合が組織され、同8年には497件ものストライキが起きています。
並行して、農村においても小作争識件数は年ごとに激増しました。
小作入組合が組織され、小作人も組合を背景に集団的に要求する形に変わっていきました。
このような時期に、日本農民組合創立者である賀川豊彦(写真)と杉山元治郎によって設立の準備がすすみ、同11年4月9、神戸キリスト教青年会館において創立大会が開かれました。
大会議長に杉山が選ばれ、貿川起草の次の綱領が決定されました。
綱 領
一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。
一、われらは相互扶助のカにより、相信じ、相より農村文化の向上を期す。
一、われら農民は、穏健着実合理合法なる方法もって、共同の理想に到達せんことを期す。
以上から考えても、この組織は穏健的であり、地主との協調的な色彩の渡い性格をもっています。が、誕生の意義は大きなものがありました。
中島は、農民組合兵庫支部の最初の支部に
なお、大会は杉山元治郎を組合長に賀川豊彦ら九人の理事を選出して幕を閉じました。
このようにして、わが国最初の全国的農民組織が名実ともに発足し、その指導のもとに農民運動が組織的に展開するようになりました。
この日本農民組合設立後、兵庫県下において最初の支部が中島において組織されたのです。大正(1922)11年4月のことでした。(no2921)
*写真:日本農民組合設立の中心になった若き日の賀川豊彦