養子・伊織は兄の子
後に、武蔵の養子となる少年伊織も米田に生まれました。
家系図に従えば、伊織は、武蔵の実兄・田原久光の第二子です。
武蔵は、甥を養子に迎えたことになります。
実は、武蔵は伊織の前にも養子をとっています。
造酒之助(みきのすけ)です。
この少年を、姫路藩主の嫡男で干姫の夫・本多忠刻(ただとき)の小姓に差しだしています。
ところが、忠刻が早くして亡くなった。まだ殉死の風が残っていたころで、造酒之肋も追腹を切って主人の後に続きました。23歳でした。
造酒之助については、次号で紹介することにしましょう。
伊織、明石藩に仕え、そして小倉藩に移る
妻子のなかった武蔵は、造酒之助の死後、新しい養子をもらいたいと、兄・久光に頼み、伊織を迎えることになりました。
先に紹介したように、伊職は、田原本家を継いでいた久光の二男として、慶長17年(1612)に生まれています。
15歳で、武蔵の推挙で明石藩主・小笠忠真に仕えました。
武蔵は、伊織を養子として迎え、すぐに小笠原家に差しだしたようです。
伊織は、忠真の側近として、次第に藩経営に才能を開花させ、弱冠20で藩政の中枢に入りました。
寛永9年(1632)、主君の小笠原忠真が小倉へ転封されますが、伊織もこれに従い、小倉移り2500石の家老職についています。
小倉に移って6午目、島原の乱の鎮圧のため小笠原軍が出陣します。
伊織は、筆頭家老として存分の働きをしたようで、鎮圧後、加増され、4000石を与えられています。(no2888)
*『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照
*写真:米田の西光寺の武蔵と伊織の像