ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(305) 宮本武蔵 in 高砂(6) 養子・伊織は武蔵の兄の子

2015-08-02 06:56:09 | 高砂市

       

          養子・伊織は兄の子

  後に、武蔵の養子となる少年伊織も米田に生まれました。

 家系図に従えば、伊織は、武蔵の実兄・田原久光の第二子です。

 武蔵は、甥を養子に迎えたことになります。

 実は、武蔵は伊織の前にも養子をとっています。

造酒之助(みきのすけ)です。

 この少年を、姫路藩主の嫡男で干姫の夫・本多忠刻(ただとき)の小姓に差しだしています。

 ところが、忠刻が早くして亡くなった。まだ殉死の風が残っていたころで、造酒之肋も追腹を切って主人の後に続きました。23歳でした。

造酒之助については、次号で紹介することにしましょう。

   伊織、明石藩に仕え、そして小倉藩に移る

 妻子のなかった武蔵は、造酒之助の死後、新しい養子をもらいたいと、兄・久光に頼み、伊織を迎えることになりました。

 先に紹介したように、伊職は、田原本家を継いでいた久光の二男として、慶長17年(1612)に生まれています。

 15歳で、武蔵の推挙で明石藩主・小笠忠真に仕えました。

 武蔵は、伊織を養子として迎え、すぐに小笠原家に差しだしたようです。

 伊織は、忠真の側近として、次第に藩経営に才能を開花させ、弱冠20で藩政の中枢に入りました。

 寛永9年(1632)、主君の小笠原忠真が小倉へ転封されますが、伊織もこれに従い、小倉移り2500石の家老職についています。

 小倉に移って6午目、島原の乱の鎮圧のため小笠原軍が出陣します。

 伊織は、筆頭家老として存分の働きをしたようで、鎮圧後、加増され、4000石を与えられています。(no2888)

 *『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照

 *写真:米田の西光寺の武蔵と伊織の像

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