武蔵死す
正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。
その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。
きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者の想像です。
高砂の潮風をききながら
・・・・
「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」
末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。
「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」
「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」
途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。
「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」
伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。
武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその方角にしっかりと据える。
伊織が寄り、添って父の細くなった背を支えた。
「気をしっかり持って、剣一途の長いながい遍歴の終わりを、どうか高砂の地にてお迎え下され」
伊織としても、できれば武蔵を描磨へ連れ帰りたい。
「おお、高砂浦の波音が微かに聞こえてくるではないか」
「はい。明け方など風が波音を米田の生家にまで届けてくれました」
耳に届いている波音が実は有明海のものだと伊織は口にできない。
武蔵の眼が、そのときにわかに和んだ。
眼から険しさが消え、孤高の色が消え、心持ち細くもなったかと思うと、伊織は、父を支える腕に重さを感じた。
「父上っ」
・・・・
5月19日早朝、宮本武蔵は62歳の命をようやく肥の国のしたたる緑の中に溶け込ませた。(no2908)
<お知らせ>
「宮本武蔵in 蔵高(25)」までを一部としておきます。
いったん、このシリーズをお休みして、次の話題へ移ります。
「宮本武蔵(二部)」は、少しお休みして続けることにします。
*『双剣の剣客』(寺林峻)参照
*写真:宮本武蔵坐像(熊本県美術館蔵)晩年の肖像画と思われる。