ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(325) 宮本武 in 高砂(25) 武蔵の死

2015-08-18 09:37:52 | 高砂市

   武蔵死す

 正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。

 その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。

 きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者の想像です。

   高砂の潮風をききながら

 ・・・・

 「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」

 末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。

 「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」

 「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」

 途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。

 「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」

 伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。

 武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその方角にしっかりと据える。

 伊織が寄り、添って父の細くなった背を支えた。

 「気をしっかり持って、剣一途の長いながい遍歴の終わりを、どうか高砂の地にてお迎え下され」

 伊織としても、できれば武蔵を描磨へ連れ帰りたい。

 「おお、高砂浦の波音が微かに聞こえてくるではないか」

 「はい。明け方など風が波音を米田の生家にまで届けてくれました」

 耳に届いている波音が実は有明海のものだと伊織は口にできない。

 武蔵の眼が、そのときにわかに和んだ。

 眼から険しさが消え、孤高の色が消え、心持ち細くもなったかと思うと、伊織は、父を支える腕に重さを感じた。

 「父上っ」

 ・・・・

 5月19日早朝、宮本武蔵は62歳の命をようやく肥の国のしたたる緑の中に溶け込ませた。(no2908)

 <お知らせ>

 「宮本武蔵in 蔵高(25)」までを一部としておきます。

 いったん、このシリーズをお休みして、次の話題へ移ります。

 「宮本武蔵(二部)」は、少しお休みして続けることにします。

 *『双剣の剣客』(寺林峻)参照

 *写真:宮本武蔵坐像(熊本県美術館蔵)晩年の肖像画と思われる。

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高砂市を歩く(324) 宮本武蔵 in 高砂(24) 五輪之庭

2015-08-17 07:30:27 | 高砂市

   五輪之庭

 仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。五輪塔は、「地・水・火・風・空」の世界(当時の宇宙観)をかたどったものです。

 『五輪書』は、宮本武蔵が著した一書ですが、たんなる武術の指南書や奥義書ではありません。

 人間の真実、人生の真実をも解きあかした思想書といわれます。

 その概要は、「地之巻」では兵法をあらわし、「水之巻」では二天一流の太刀筋を、「火之巻」では戦いの理を、「風之巻」には他流の批判を述べ、「空之巻」は結論となっており、ここに表れている武蔵の思想には、他の兵法者(書)とは著しく異なっています。

  そこで、米田町西光寺の庭に「五輪之庭」をテーマにした作庭が試みられました。

 仏教でいう五輪にちなみ、かつ武蔵の著した『五輪書』の趣旨を生かした作庭となっています。

 ここからでてくるのは、「文武両道」の思想であり、これはまた人生の指針でもあるといえます。

   余話:山本富士子の祖先話

 武蔵と関係のない余話です。

 年配の方であればどなたでもご存知の大スターです。

 山本富士子さん(1931年生まれ)は、1950の第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本に選ばれました。

 彼女は、日本を代表する美人で、その後映画全盛の時代大活躍した大スターです。
 山本富士子さんの山本家が、代々米田に居住されており、富士子さんの祖父に当たる故山本重蔵氏らの墓碑、寄進物や、母、故山本勝代様の寄進物、叔父、故山本健次郎氏の寄進碑などが西光寺にあります。(no2907)

 *写真上:五輪之庭(米田町西光寺)、下:山本富士子

 *「西光寺HP」参照

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高砂市を歩く(323) 宮本武蔵 in 高砂(23) 独行道の碑 

2015-08-16 09:45:33 | 高砂市

     独行道の碑

 米田天神社の近くの「武蔵生誕地碑」がある同じ敷地に、「独行道の碑」(写真)あります。読んでおきましょう。

     独行道

   一、世々の道をそむく事なし

  一、身にたのしみをたくます
  一、よろつに依怙の心なし
  一、身をあさく思世をふかく思ふ
  一、一生の間よくしん思わす
  一、我事におゐて後悔をせす
  一、善惡に他をねたむ心なし
  一、いつれの道にもわかれをかなします
  一、自他共にうらみかこつ心なし
  一、れんほの道思ひよるこゝろなし
  一、物毎にすきこのむ事なし
  一、私宅におゐてのそむ心なし
  一、身ひとつに美食をこのます
  一、末々代物なる古き道具を所持せす
  一、わか身にいたり物いみする事なし
  一、兵具は各別よの道具たしなます
  一、道におゐては死をいとわす思ふ
  一、老身に財寶所領もちゆる心なし
  一、佛は貴し佛をたのます
  一、身を捨ても名利は捨てす
  一、常に兵法の道をはなれす
    正保弐年
     五月十二日 新免武藏


 「五輪書」を書き終えたとき、武蔵は死を覚悟していました。

 洞窟(霊巌洞)に引きこもったまま、最後を迎えるつもりでした。

 武蔵のガンは進行していました。

 いかに、武蔵の意志であるとはいえ、周囲の者は放置できません。

 ようやく、鷹狩と称して胴窟を訪れた旧知の盟友が、帰宅を促し、居宅に連れ戻しました。

 正保二年(1645)、春も暮れようとするころでした。

 その年の五月、武蔵は身辺整理を姶めました。

 高弟の寺尾孫之丞勝信に「五輪書」を、その弟・求馬助信行には「兵法三十五箇条」を与えました。

 求馬助は、師の最後をみとるべく、側に付き添っていました。

 その求馬助に、武蔵は筆を所望し、流麗な筆致で、一紙に以下、21ヵ条を書きました。

 武蔵が自分の短所を克服するために自戒の事柄だといわれています。

 まさに、武蔵の人生観(独行道)でした。(no2906)

 *『Ban Cul』(2003冬号)参照

 *写真:「独行道の碑」(米田天神社前の「武蔵生誕碑」のそば)

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高砂市を歩く(321) 宮本武蔵 in 高砂(22) 神宮寺

2015-08-15 08:35:51 | 高砂市

      神宮寺(じんぐうじ)

 神宮寺は米田天神社に隣接する米田第一公民館の東隣にある寺院です。

 神仏混淆のあらわれとして、もとは米田天神社の付属寺院でしたが、明治以降の神仏分離によって独立しました。

 宮本伊織は、天神杜、神宮寺ともども崇敬しており、天神社修復の時に、「三十六歌仙額」等を寄進しました。

  伊織、神宮寺に鰐口(わにぐち)を寄進

 神宮寺には別に鰐口(写真)を寄進しています。

 鰐口は、参詣の際に本殿前で綱を振り動かして打ち鳴らします。

 お賽銭等をする前に「がらん・がらん」と鳴らすのでおなじみの音響具です。

 寄進された鰐口は、三重の円が刻まれており、その外円に「正保三年(1646)」「宮本伊織藤原朝臣貞次敬白の銘があります。

 鰐口を寄進することでねんごろな供養ができるとされますが、伊織が、銘文どおり正保三年(1646)にこれを寄進したのであれば、三十六歌仙額の寄進に先立つ7年前のことで、修復とは関係ないでしょうが、その年は、武蔵か亡くなった翌年に当たることから、きっと養父・武蔵の一周忌供養のための寄進したのでしょう。

   余話:玉屑

 江戸時代の後期には、俳諧の玉屑(ぎょくせつ)が住職を務めた寺院としても知られています。

 観月碑にある玉屑の句を紹介しておきます。(no2905)

    おお空に 障るよの霜 月の不二


 *『Ban Cul』(2003・冬号)参照

 *写真上:(米田)神宮寺、写真下:伊織寄進の鰐口

 

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高砂市を歩く(320) 宮本武蔵 in 高砂(21) 米田天神社(2)・余話として 

2015-08-14 07:47:20 | 高砂市

 武蔵には関係がない米田神社の余話です。

   米田天神社は、菅原道真を祭る神社にあらず

 「・・・米田天神社の旧社殿は、江戸時代のはじめに、宮本伊織が泊神社の後修復されました。米田天神社の修復は、承応二年(1653)に完了しています。

 以下『高砂市史(第二巻)』から引用します。

 「・・・米田天神社の主神は少彦名命(スックナヒコナノミコト)であるが、天神社の名称のためか、古くから誤って天満官と称されることもあって、天満宮と称されることもあった。

 (宮本)伊織も、泊神社の棟札で祭神を菅神すなわち菅原道道真と記している。・・・・」

 つまり、米田天神社は、現在の加古川市木村の泊神社を江戸時代の初め伊織がこの地にあった神社の修復をしています。

 米田天神社の祭神は、菅原道真ではありません。

 しかし、なぜか誤解され天神社と呼ばれ菅原道真を祭る天満宮とされていたようで、拝殿の前に菅原道真」を祭る天満宮のシンボルである臥牛(がぎゅう)がどっかりと鎮座しています。

 さすがに現在は、臥牛があるものの米田天神社は天満宮としていませんが、菅原道真に寄せる当時の村人の願いを想像します。

    菅原道真は農業(水)の神

 江戸時代の初め、しばしば大旱魃に襲われました。特に、米田天神社がつくられた少し前の承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。人々は餓えてさまよいました。

 こんな時、人々は、神に祈るより方法はありません。雨の神・菅原道真にいのりました。

 菅原道真は、学問の神様であるとともに、百姓にとっては農業の神様でした。

 詳細は省きますが、道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

 江戸時代の始め、米田村の百姓が菅原道真にかけた思いを想像してしまいます。

(no2904)

 *『高砂市史(第二巻)』参照

 *写真:米田天神社

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高砂市を歩く(319) 宮本武蔵 in 高砂(20) 米田天神社(1)

2015-08-13 08:02:41 | 高砂市

 武蔵の当時とは、すっかり違った現在の集落ですが、米田に武蔵の影を捜してみます。

 米田天神社へでかけます。

 子供の頃の武蔵を想像すると、この場所は絶好の遊び場であったのでしょう。

   米田天神社(1)

 天神社は、米田「武蔵・伊織の里」の中心にあります。

 米田の鎮守で、もとは単に天神社と呼ばれていたようです。

 先に説明した加古川を挟んで隣接する泊神社(加古川市加古川町木村)の末社です。

 泊神社は、加古川東岸の木村、加古川などのほか、同西岸の今市、中島、そして米田など合わせて17か村の氏神で、米田にも末社があり、それが米田天神社です。

 しかし、江戸の初期、17世紀半ばには泊神社は本社、末社とも随分荒れ果てていました。

 武蔵の養子・伊織が、その荒廃を憂えて、承応二年(1653)、泊神社を再建し、同時にその旧杜殿を移転ずる形で天神杜の再建も行っていました。

 伊織にしてみれば、養父と自分の出生地である米田の鎮守とその本杜の荒れた姿を見るに忍びなく、自らの出世もしました。

 そのため、社殿の寄進を行ったようです。

 天神社には、伊織の弟の小原玄昌が寄進した三十六歌仙額や、田原家一族の大山久太郎の寄進の石燈籠のほか、能舞台も残っています。(no2903)

 *『BanCul 2003冬号』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真上:米田天神社、写真下:田原一族の寄進の石燈籠

 

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高砂市を歩く(318) 宮本武蔵 in 高砂(19) 孤独、そして多芸 

2015-08-12 07:55:21 | 高砂市

  武蔵の年譜の続きとして、もう少し武蔵を紹介しておきます。

    孤独な武蔵の生涯

 それにしても、武蔵の一生は孤独でした。

 みずから孤独にのめりこんでいったようなところがあるようです。

 生涯のほとんどは放浪生活でした。

 30歳のころから消息不明となり、再び歴史の上に姿を現わすのは28年後の57歳のとき細川家の客分としてむかえられたときです。

 28年間どこでなにをしていたか謎で、彼かれには世間なみの青春というものがありませんでした。

 妻もめとっていません。

 ときおり、彼の見せる冷酷さもこのことと関係があるのかもしれません。

    武蔵は多芸の人

 この姿を消した30半ばから彼の生活に変化があり、武芸よりも思索の生活に入っていったようです。

 詳細は分かりません。

 武蔵の風貌は、身長5尺8寸(175㎝)で力も抜群だったといいます。

 頭に疔を病んだため月代をそることなく、壮年時代は頭髪を腰のあたりまでたらしていたようです。年とってからも肩まで垂らしていました。

 かれの肖像画を見るとやはり異相といってよい顔です。

 武蔵は、明石の地にユニークな足跡を残しています。

 というのは元和3年(1617)小笠原忠真が明石に入部して新城の構築と城下町づくりに看手したとき、武蔵はまねかれて町割(都市計画)を担当しました。

 武芸者の彼がどこで町割りの技術などを学んだのか、また、小笠原家とどういうゆうゆかりがあったのかはっきりしていません。

 明石の中心部十ヵ町は、武蔵により原型ができあがりました。

 武蔵の文化活動(絵画など)や明石の町割りについては、後に再度述べることにします。(no2902)

 *『兵庫人国記(黒部亨)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *絵:宮本武蔵肖像画(部分)・島田美術館蔵

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高砂市を歩く(317) 宮本武蔵 in 高砂(18) 宮本武蔵の年譜

2015-08-11 09:48:06 | 高砂市

 「宮本武 in 高砂」では、あまり筋だっていません。流れがつかみにくいと想像します。

 ここに、武蔵の年譜を紹介しておきます。

 「宮本武蔵in 高砂」の記事を下の年譜に載せてお読みください。

   官本武蔵の年譜

 1584年  武蔵米田に誕生

 1588年  このころ田原家から新免家

        (作州大原)に養子に行く

 1596年  初めて、剣客と試合をして勝つ

 1600年  黒田氏に陣借りをして閥ヶ原の合戦に参加

 1604年  京都・一乗寺で、吉岡一門との対決

        このころから、禅・絵画・作庭の研究

 1612年  巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ

 1617年  甥の伊織を養子とする

        このころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする

        明石小笠原家の客分となる

 1626年  養子官本伊織、小笠原家の家臣となる

 1634年  伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる

 1636年  伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も軍監として参加

 1640年  熊本藩主細川氏の知偶を得る

        熊本に住み、絵画・書・詩歌をたしなむ

 1645年  「五輪書」が成立

 同年62才で死亡

 1653年  伊織、泊神杜を再建(no2901)

 *絵画:武蔵13歳の肖像(島田美術館蔵)

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コーヒーブレイク ひろかずのブログ・2900号に

2015-08-10 08:08:23 |  ・コーヒーブレイク・余話

       「ひろかずのブログ」、2900号!

  退職しましたので、「散歩でもしながら」で、見たこと感じたことを書いてみようかなとして始めたブログですが、内容も地域史中心になり、今日で2900号になりました。

 途中大きな故障もなく、なんとか続いています。

 当面の目標は、3000号です。押しつけになりますが、お付き合いをよろしくお願いします。

   少しだけ、軌道修正をさせましょうか

 このブログは、退職後の遊びですから、「これは、これでもいいのかな・・・」と、思いますが、最近は「これは大変だ!」とチョット考えさせられています。

 「(一括審議の)安保法案」についても心配しています。

 まさに、「悪魔のささやき」です。「私も何か発言し・行動しなければ」と考えさせられています。

 先日は、たまらなくなり、ある集会に参加しました。多くの方とシュプレヒコールを叫び行進して、少しだけ元気をもらいました。

 「2900号」の数だけを密かに誇っていているだけではだめなんですね。

 そのため、「あまり力にはなりませんが、コーヒーブレイクとして、時々意見(不満)らしきものも発信しようかな!」とかんがえています。

 そんな時は、ご意見をお願いします。もちろん反対でも結構です。

 9日(きのう)は、長崎の原爆投下から70年目の日。式典で、長崎市長さんははっきりと政権に直言されました。拍手をしながらテレビを見ていました。

 6日・広島で安倍首相は「非核三原則」に触れなかったため、多くの非難の声がおきました。長崎の式典では、非核三原則を言わされていました。

 言わせしめたのは、多くの国民の声ですね。(no2900)

 *写真:長崎の平和祈念式典(神戸新聞より)

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高砂市を歩く(316) 宮本武蔵 in 高砂(17) 泊神社(3)・伊織、泊神社修築

2015-08-09 08:16:23 | 高砂市

     宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

 2012年10月21日、宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典が木村の泊神社で行われました。

 10月21日が伊織の誕生日だそうで、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。

 プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。

    伊織は明石藩の家老に

 武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。

 泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1653年、荒廃する社殿を再建しています。

     宮本伊織・14代目当主参列

 式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。

 余談ですが、宮本さんは、2012年10月18日(木)のBS歴史館「宮本武蔵‐巌流島ミステリー」にゲストとして登場されておられていたのを偶然拝見していましたのでビックリでした。

 優しそうな方でした。

 なお、BSでは俳優・高橋弘樹さん・アナウンサーの渡辺真理さんが解説者とともに参加され、解説者は国際武道大学教授の魚住孝至さんで、魚住さんは高校の後輩の歴史学者(加古川出身)で、おもしろい番組でした。

   宮本伊織、泊神社に燈籠を寄進

 *本殿裏の伊織寄進の石燈籠の説明を読んでおきます。

 ・・・武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくし、石灯ろう(写真下)を奉納した。

 この本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

 二基とも花崗岩製で、承応二年(1653)三月に寄進したことが、銘文によって明らかです。

 宮本伊織のものは、全長297センチ、田原正久寄進のものは全長165センチあります。(no2899)

 *写真上:宮本伊織から14代目当主

 *写真下:宮本伊織寄進の灯ろう(二基の内、右側の燈籠)

 

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高砂市を歩く(315) 宮本武蔵 in 高砂(16) 泊神社(2)・泊神社の氏子たち

2015-08-08 11:21:46 | 高砂市

    泊神社の氏子たち

  『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。

 かなりの大社であったようです。

 前回も触れましたが、泊神社の氏子に注目してください。

 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村や塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっています。

 木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。

 郡境は川を境にしたと考えられます。ですから、郡境が設定されたころ(奈良時代)は、泊神社(木村)は、加古川は泊神社の東を流れていたようです。

 加古川は、暴れ川です。武蔵の頃は米田村の西を本流が流れ、すぐ東に支流が流れていたと考えられます。

 上記の加古川村(現在:加古川市本町)・木村・友沢・稲屋は明治22年、加古郡に編入され現在に至っています。

   「泊」は港(水門・みなと)の守護神

 『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」は加古川の河口部にあったと記しています。

 研究者は、「鹿子の水門(みなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられるのです。

 さらに、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請し、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示している・・」と述べています。(no2898)
 *『加古川市史(第一巻)』参照

 *写真:泊神社拝殿・本殿

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高砂市を歩く(314) 宮本武蔵 in 高砂(15) 本宮・泊神社(1)

2015-08-08 10:26:44 | 高砂市

  加古川市加古川町木村の泊神社は、米田にある神社の米田神社の本宮です。

 小説ですが『双方の客人』で、泊神社の祭りの日の楽しさを次のように書いています。

 武蔵も夏祭りを楽しみにしていたようです。

     本宮・泊神社

 「・・・泊神社は加古川左岸の雁南庄木村の字宮本にあって広い雁南庄全域が崇敬地になっている。

 それだから祭りになると高砂側からも氏子らが大勢、加古川を渡って参拝する。

 ことしの夏祭りも二隻の渡し舟が松明のかがり火を点じて加古川の両岸をせわしなく行き来している。

 子どもらが楽しみにするだけあって、松明の火花が川面に散って夢幻の美しさを見せている。

 川を渡りきって鳥居に至ると、そこで一人ひとりが点火した松明を渡されて神殿に向かう。その列が火の綱となって社殿前まで途切れずに続いている。・・・」(以上『双刀の客人』より)

   泊神社訪問(1) 本宮がなぜ川東に?
 ここで加古川町木村にある米田の氏神・泊神社を訪問します。
 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。
 かなりの大社であったようです。

 泊神社の氏子に注目してください。
 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするのですが、さらに塩 市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっています。
 泊神社の氏子は、加古川の東岸・西岸に広がっている!

 すこし不思議です。(no2897)

 *写真:泊神社(加古川市加古川町木村)

*『双剣の客人(寺林峻)』参照

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高砂市を歩く(313) 宮本武蔵 in 高砂(14) 桶居山の伝承 

2015-08-07 10:15:14 | 高砂市

 

        桶居山の伝承

 前号の米田村の説明の続きで、旧山陽道をさらに西へゆきます。姫路市別所町佐土新に桶居山がそびえています。

 桶居山(写真)は、姫路市と高砂市との境に位置する山で、標高は247.6㍍の山塊です。

 山名は、岩が大きな升の形をして見えることからつけられたようです。

 宝暦12年(1762)の頃に成立したとされる『播磨鑑(はりまかがみ)』には、桶居山の項目に「宮本武蔵修業説」が紹介されています。

 桶居山で武蔵が天狗に兵法を習ったというのは創作でしょうが、山塊の形相はそんな雰囲気を醸し出しています。

 『播磨鑑』にこの話があるということは、地元では宮本武蔵高砂説が当然のごとく広がっていたようです。

 先日、桶居山へ出かけました。暑い日で、桶居山は心なしか白くかすんで見えるほどでした。

 『双剣の客人』で寺林峻氏は、桶居山の宮本武蔵修業説を取り入れ、次のように書いておられます。(少し書き変えています)

     武蔵、蜘蛛となる

 桶居山は離れて見るとまるい感じでしかないが、山頂付近の岩盤は急傾斜で、しかも手がかりの突起が少ない。そこで先に天狗遊びを始めたのはやはり外で活発な玄信(後の武蔵)だった。

 膝に弾みをつけて身の丈ほどの平地へ飛び降りたかと恩うと、さらに足場を慎重に見つけながら下っていく。

 弟を気づかって到着点で待ち受けてやろうと久光(武蔵の兄)は急いで下りにかかるが、ついからだを岩壁にくっつけて下るので、なかなか玄信を追い越せない。

 一つの岩場がつきると、高御位山に続く岩壁へ向かい、二人は先になり後になりしながら二匹の蜘昧となる。

 ・・・幼い玄信にとって、これは天狗遊びでなく武人となるための鍛練なのだった。

 桶居山に限らず、家から近い生石神社の山、播磨灘の全容を見渡せる竜山、どの山も人の挑戦を誘うように険しい岩壁をさらしている。

 玄信は、そこを鍛練の道場としていた。(no2896)

 *『双剣の客人(寺林峻著)』(アールズ出版)参照

 *写真:桶居山の岩場(姫路市別所町佐土新)、武蔵はこの山で天狗から兵法を習ったという伝説がつたわる。

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高砂市を歩く(312) 宮本武蔵 in 高砂(13) 米田村 

2015-08-06 08:48:13 | 高砂市

 今、米田村の宮本武蔵について書いていますが、米田村についてあまり語っていません。

 地図で、米田村の場所を確かめてください。

 小説家・寺林峻氏は『双剣の客人』で、当時の米田村につて書いておられますので、少し文章を変えて、米田村を紹介しておきます。

    米 田 村

 米田村の田原家が宮本武蔵の生家です。

 米田は、ゆったりと流れる加古川の右岸(西岸)にあって、河口もそう遠くはありません。

 美しい高砂浦を持っていたので、このあたりいったいは、古来、「高砂」と呼ばれていました。

 あえて、田原家の位置を武蔵のころの地名でいえば、播磨国印南郡雁南庄(がんなんしょう)米田となります。

    風の子になる

 高砂の北方から西側かけて濯木の少ない岩山が屏風のように連なり、その山麓から始まる平野は、加古川の東へも広々と伸びていました。

 しかも、播磨平野は、南が播磨灘の海原に接していることもあって、一見しで果てしないといった感を与えています。

 印南郡雁南庄米田は、そんな播磨平野のほぼ真ん中にあり、田原家のすぐ北には山陽道が東西に伸びています。

 従って、田舎にありながら、都や大阪等のニュースも、いち早く伝わりました。

 東には、加古川の大河が南流しているから、平野部にあるわりに地形に特徴があります。

 それでも、夜になれば近くの西光寺か神宮寺を目印にしないと、わが家の方角さえ失ってしまいそうになります。

 そんな広い平野の主は、さえぎるものなく、吹き渡っていく風の子ということになります。

 宮本武蔵は、まぎれもなく播磨平野に育てられる主役の一人でした。(no2895)

 *地図:宮本武蔵の時代よりすぐ後の江戸時代の正保播磨国絵図(部分)の解読図です。

 米田村の地形が想像されます。(赤:米田村、青:旧山陽道)

 *『双刀の剣客』(寺林峻著)参照

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高砂市を歩く(311) 宮本武蔵 in 高砂(12) 田原家屋敷跡(2)・クスノキは残った

2015-08-05 12:13:16 | 高砂市

    田原家屋敷跡(2)

 「田原家跡」の場所ですが、西谷酒造の看板(写真上)のあるすぐ横の道(歩道)を北へ100㍍ほど行った所です。

 歩道に沿ってあるので、すぐわかります。

 先日、暑い日の昼ごろ、この場所へでかけました。

 「米田の庄屋・田原家の屋敷跡」のイメージを描いて出かけたのですが、みごとに裏切られました。

 車の多い、南北の広い道沿で、屋敷跡は狭い空き地に無機質な「田原屋敷跡野碑があるだけでした。

    クスノキは残った

 田原家屋敷は、この碑の南北に向かって広がっていたといわれます。

 この辺りを見渡すと酒造会社の一角に大きなクスノキ(写真下)が聳えています。

 最近まで、もう一本のクスノキが残っていたのですが、道路拡張に伴い切られてしましました。

 このクスノキは、樹齢700年といいますから、武蔵が生まれた頃でも300年をへていたわけで、武蔵も、伊織もこのクスノキに登り遊んでいたことでしょう。

 なにも残っていない武蔵の生家(田原家)跡ですが、そんなことを想像してみると違った風景に見えてきます。

   絶景の場所

 余話ですが、武蔵の頃は加古川の旧本流はこの辺りを南東を流れていたようです。

 そのため、水害が多い集落であったようですが、河川敷が広がりまさに絶景の地であったようです。

 時代は少し下りますが、江戸時代、多くの俳人がこの地を訪れ、観月会を催し多くの句を残しています。

 いくつかの句が、近くの碑(観月碑)に刻まれています。

 「田原家屋敷跡」に来られました時には、この観月碑にもお寄りください。(no2894)

 *写真上:西谷酒造、下:樹齢700年のクスノキ

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