武蔵の年譜の続きとして、もう少し武蔵を紹介しておきます。
孤独な武蔵の生涯
それにしても、武蔵の一生は孤独でした。
みずから孤独にのめりこんでいったようなところがあるようです。
生涯のほとんどは放浪生活でした。
30歳のころから消息不明となり、再び歴史の上に姿を現わすのは28年後の57歳のとき細川家の客分としてむかえられたときです。
28年間どこでなにをしていたか謎で、彼かれには世間なみの青春というものがありませんでした。
妻もめとっていません。
ときおり、彼の見せる冷酷さもこのことと関係があるのかもしれません。
武蔵は多芸の人
この姿を消した30半ばから彼の生活に変化があり、武芸よりも思索の生活に入っていったようです。
詳細は分かりません。
武蔵の風貌は、身長5尺8寸(175㎝)で力も抜群だったといいます。
頭に疔を病んだため月代をそることなく、壮年時代は頭髪を腰のあたりまでたらしていたようです。年とってからも肩まで垂らしていました。
かれの肖像画を見るとやはり異相といってよい顔です。
武蔵は、明石の地にユニークな足跡を残しています。
というのは元和3年(1617)小笠原忠真が明石に入部して新城の構築と城下町づくりに看手したとき、武蔵はまねかれて町割(都市計画)を担当しました。
武芸者の彼がどこで町割りの技術などを学んだのか、また、小笠原家とどういうゆうゆかりがあったのかはっきりしていません。
明石の中心部十ヵ町は、武蔵により原型ができあがりました。
武蔵の文化活動(絵画など)や明石の町割りについては、後に再度述べることにします。(no2902)
*『兵庫人国記(黒部亨)』(神戸新聞総合出版センター)参照
*絵:宮本武蔵肖像画(部分)・島田美術館蔵