今回も、宮本武蔵の故郷・米田を知るための話です。中世の記録『鎮僧私聞書』の話です。
加古川大氾濫(応永32年・1425)
中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしません。
というのは、ほとんど史料(文書類)が残っていないからです。
そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場しています。
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その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。・・・・
加古川は、播州平野を流れる大河でございます。いったん川が暴れだすと手がつけられません。
今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。
私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。
人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。
上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の普通の考え方でした。(以上「鎮増私聞書」より)
ここでは、米田は水に恵まれた地域でしたが、それだけに水害も多く経験した地域であったことを確認しておいてください。(no2892)
*(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)参照