ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(309) 宮本武蔵 in 高砂(10) 加古川大氾濫

2015-08-04 09:24:20 | 高砂市

 今回も、宮本武蔵の故郷・米田を知るための話です。中世の記録『鎮僧私聞書』の話です。

  加古川大氾濫(応永32年・1425
 中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしません。
 というのは、ほとんど史料(文書類)が残っていないからです。
 そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場しています。
 ・・・

 その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。・・・・
 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。いったん川が暴れだすと手がつけられません。
 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。
 私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。
 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
 ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。

 上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の普通の考え方でした。(以上「鎮増私聞書」より)

 ここでは、米田は水に恵まれた地域でしたが、それだけに水害も多く経験した地域であったことを確認しておいてください。(no2892)

 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)参照

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高砂市を歩く(308) 宮本武 in 蔵高砂(9) 米墮(よねだ) 

2015-08-04 09:08:42 | 高砂市

 宮本武蔵の故郷・米墮(よねだ:以下、米田とします)を知るために、米田の歴史・伝承を紹介します。

 文・挿絵とも『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)からの転載であることを最初にお断りしておきます。

   米墮(よねだ)の伝承

 大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで高砂の海を通っていました。

 その時、法華山一乗寺(いちじょうじ)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばせて供米を申し入れました。

 藤井は、自分だけの了見で米を渡すことができないとことわったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米も法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。

 藤井は、驚いてあやまりに行きました。 

 藤井が供米をこばんだのは、年貢米を私物として考えなかったことが正しいのであって、おこる法道仙人の方が無理です。

 法道仙人が笑って許すと、米もとのように連なって船へ飛んで帰りました。

 その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮といい、後に米田と呼ばれるようになりました。

 一俵だけこの地に落ちたのは、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物としてあった、といわれています。

 その後、稲は豊かに実り、村は栄えていきました。

 この伝承は、米田は、水が豊富でお米がたくさん生産される地域であることを物語っています。(no2891)

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

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