ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(307) 宮本武蔵 in 高砂(8) 六継里(むつぎのさと)

2015-08-03 11:51:56 | 高砂市

 既に、紹介した六継里の復習です。

 「宮本武蔵 in 高砂」と直接繋がりませんが、この辺りで、武蔵の誕生地・米田のイメージを膨らませつために、米田の歴史(伝承)を2・3紹介しておきましょう。

 ですが、「宮本武蔵 in 高砂」に含めておきます。

    コーヒーブレイク:米田の歴史・民話(1)

       六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の質などをまとめた地理・歴史書です。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場します。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようです。
 六継里は、いまでは高砂市の南部と加古川市の南部が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域であったようです。
ここには、10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはありますが、現存しない植物だと言われています。

    加古川の本流は、米田の西を流れる!
 当時の六継里の風景を想像してみましょう。
 風土記の頃、加古川の本流は、この里の西を流れていたと想像されています。
 六継里が稲屋・木村(加古川市)を含んでいることから考えると、今の米田と対岸の集落は、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋・木村は、六継里として一つの生活圏であったのでしょう。
 復習します。当時の加古川の本流は、六継里の西をながれから海に流れ込んでおり、六継里は、海岸に近い地域でした。
 目の前の海には、比較的大きなナビツマ島が横たわっていました。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市の中心部を形成していました。

 風土記の時代(奈良時代)の米田あたりの風景を想像ください。(no2890)
 *写真:「六継里」を示す碑(米田天神社南の桜公園のすぐ西)

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高砂市を歩く(306) 宮本武蔵 in 高砂(7) 造酒之助(三木之助)の殉死

2015-08-03 07:12:43 | 高砂市

   宮本造酒之助(三木之助)

 武蔵は、伊織りの以前に養子をとっています。造酒之助です。

 姫路藩主となった本多忠政の嫡男、本多忠刻(ただとき)は剣術を好み、宮本武蔵を七百石で召し抱え、自ら流儀を学び、家士にも学ばせたが、武蔵が暇を申し出たので、武蔽の養子造酒之助(三木之助)を取り立て、忠刻は造酒之助から神 明二刀滞の奥義を授けられたといいます。

 この辺りの状況を、小説ですが『双剣の客人(寺林峻著)』を読んでみます。

 「三木之助の殉死」としておきます。

   造酒之助(三木之助)の殉死(「双剣の客人」より)

 寛永三年(1626)初夏、三木之助(『双剣の客人』では、三木の助を使っています)が剣の指南をしていた本多忠刻が病死したのである。

 二年ほど前から忠刻は病がちになって剣の修練どころでなくなったので、三木之助は本多家から暇をもらって江戸へ出ていた。

 そこで、忠刻の死を知ると急ぎ姫路へ帰る途中、大坂にいた武蔵の仮寓先を訪ねてきた。

 武土の習いにそって殉死したいと三木之助がいうのを、武蔵はしきりに引き留める。

 すでに臣従の絆は断っていることだし、剣に生きる者が24歳にして則にてわが命を断つるは、天命にもとる。

 そんな説得が効いてもう一度剣の道を歩もうとなり、とりあえず香を手向ければすぐに帰ってきますと西(江戸)へ向かった。

 ところが。風に乗って届いたのは三本之助の殉死だったのである。

 急ぎ播磨へ帰り、書写山へ詣でて三木之助の霊に香を捧げる。

 珍しく人の気配のない午(ひる)下がりで、静寂に締めつけられながら武蔵は両の拳でしばらく膝を打ち続けた。(以上『双刀の客人』より)

 造酒之助の墓は、書写山円教寺の藩主忠政、忠刻等が眠る本多家廟の一角にあります。(no2889)

*「双剣の客人(寺林峻著)」参照

*写真:姫路城主本多家の廟所(書写山・円教寺:造酒之助は本多家の廟所に眠る)

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