既に、紹介した六継里の復習です。
「宮本武蔵 in 高砂」と直接繋がりませんが、この辺りで、武蔵の誕生地・米田のイメージを膨らませつために、米田の歴史(伝承)を2・3紹介しておきましょう。
ですが、「宮本武蔵 in 高砂」に含めておきます。
コーヒーブレイク:米田の歴史・民話(1)
六継里(むつぎのさと)
『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の質などをまとめた地理・歴史書です。
米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場します。
もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようです。
六継里は、いまでは高砂市の南部と加古川市の南部が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域であったようです。
ここには、10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはありますが、現存しない植物だと言われています。
加古川の本流は、米田の西を流れる!
当時の六継里の風景を想像してみましょう。
風土記の頃、加古川の本流は、この里の西を流れていたと想像されています。
六継里が稲屋・木村(加古川市)を含んでいることから考えると、今の米田と対岸の集落は、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋・木村は、六継里として一つの生活圏であったのでしょう。
復習します。当時の加古川の本流は、六継里の西をながれから海に流れ込んでおり、六継里は、海岸に近い地域でした。
目の前の海には、比較的大きなナビツマ島が横たわっていました。
ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市の中心部を形成していました。
風土記の時代(奈良時代)の米田あたりの風景を想像ください。(no2890)
*写真:「六継里」を示す碑(米田天神社南の桜公園のすぐ西)