ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(337) 中島・今市を歩く(13) 中島の農家の約47戸のうち40戸が小作・自小作

2015-08-29 07:21:25 |  ・高砂市伊保町

 中島・今市を歩いています。

 中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。

 中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。

   中島の70戸の集落、うち農家は47戸 

            (約40戸が小作・自小作)

 兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)年4月28日、印南郡伊保村中島支部においてでした。

 当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。

 非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。

 耕地面積は、田36町歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.8町歩を貸し付けていました。

 *大地主・伊藤家については、後に説明します。

   耕地規模は1戸平均7反歩

 耕作規模は、1戸平均で約7反歩、農事に精励する篤農家が多い村でした。

 収穫は、平年作で一等田2石7,8斗、裸麦1石5、6斗で、小作料は1等田で1石8斗5升(68%)、田一級下がるごとに5升引が決められていました。

 大正10年(1921)の秋は、地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗を収穫、「収支計算すれば、一反歩に7円50銭の損失」が出る状態でした。

 それまでから、村では毎年収穫時に作況を検討したうえで、代表(5名)を選んで地主と交渉しましたが、地主は小作料減額を認めても5分程度でした。(no2922)

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:『東播地方農民運動史』表紙

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