中島・今市を歩いています。
中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。
中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。
中島の70戸の集落、うち農家は47戸
(約40戸が小作・自小作)
兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)年4月28日、印南郡伊保村中島支部においてでした。
当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。
非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。
耕地面積は、田36町歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.8町歩を貸し付けていました。
*大地主・伊藤家については、後に説明します。
耕地規模は1戸平均7反歩
耕作規模は、1戸平均で約7反歩、農事に精励する篤農家が多い村でした。
収穫は、平年作で一等田2石7,8斗、裸麦1石5、6斗で、小作料は1等田で1石8斗5升(68%)、田一級下がるごとに5升引が決められていました。
大正10年(1921)の秋は、地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗を収穫、「収支計算すれば、一反歩に7円50銭の損失」が出る状態でした。
それまでから、村では毎年収穫時に作況を検討したうえで、代表(5名)を選んで地主と交渉しましたが、地主は小作料減額を認めても5分程度でした。(no2922)
*『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照
*写真:『東播地方農民運動史』表紙