ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(332) 中島・今市を歩く(8) 喧嘩島

2015-08-24 10:21:28 |  ・高砂市伊保町

 今回のブログは「高砂市を歩く(126・喧嘩島)」の再録です。

 喧嘩島は、南洗川の出口にあった今市のすぐ南にあった島です。

    復習・喧嘩島(けんかじま)

 右の地図(明治28~31頃)をご覧ください。

 伊保村と荒井村の間に島(赤く彩色した島)があります。

 復習になりますが、この島が今回の話題の喧嘩島です。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 後に、この場所に現在の高砂市役所が建てられました。

 砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになりました。

 寛文7年(1667)、荒井・伊保崎両村のものとする裁定で結着したといわれますが、喧嘩島の名は、その後も地名として残りました。

 昭和29年(1954)7月、町村合併で高砂市が誕生しました。

 3年後、南洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、市庁舎が完成しました。

 法華山谷川を境に加古郡と印南郡が永らく分れていた関係もあり、地理的にも高砂市の中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。(no2917)

 *地図:毎時28~31年頃の喧嘩島(赤く彩色した島)

 

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高砂市を歩く(331) 中島・今市を歩く(7) 洪水の村

2015-08-24 09:48:50 |  ・高砂市伊保町

     復習)中島・今市村の地形

  上記の明治30年頃の地図(一部)をご覧ください。中島・今市村を取り囲む川筋を赤く彩色しました。

 復習です。

 地図でA~B間は、北洗川で、B~C間は南洗川です。

 そして、A~C間は、現在の法華山谷川です。

 中島村・今市村は、完全に水に囲まれた村です。

 北洗川は川筋跡が少し残されていますが、南洗川跡は、「洗川緑道」として整備され、その両側も宅として開発されています。

     今市村の水害

 この地形のために、中島・今市はしばしば洪水の襲撃がありました。

 『高砂市史(第二巻)』に、幕末の今市村の水害の記録(今市村の鈴木家の文書)がありますのでお借りします。

 ・・・・今市村の鈴木家の日記(鈴木家文書)によれば、慶応2年(1866)8月4日からは、大雨が降り続いて、6日昼4つ時(午前10時頃)より洪水となり、一橋家領今市村では夜に7カ所の堤が決壊して村中急流となり、全家没水し、村の東では、4尺余りも浸かったという。

 これにより米・綿・菜種・干鰯が大損害をこうむる。

 15日より、また雨が降って16日昼過ぎには洪水となり、東の家々はまたもや浸水した。

 この間、今市村では有力者か握飯などの食科を提供し、村人たちは寺に避難して危機を乗り切っている。(no2916)

 *地図:明治30年頃の中島・今市村の地図(一部)

コメント (1)
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