ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

コーヒブレイク   過去の歴史を忘れてよいのか!

2015-08-18 10:22:10 |  ・コーヒーブレイク・余話

 「ひろかずのブログ(2900号)で、時々発言をします」と宣言しました。

 ブログは、次の話題「伊保町中島を歩く」の前に少し言いたいを書いておきます。

   若者は過去の歴史を忘れてよいのか!

 政府は14日、午後の臨時閣議で、戦後70年の安倍首相談話を決め、発表しました。

 内外からいろいろ評価もあるようですが、次のヵ所が特に気になりました。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割をこえています。

 あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世帯の子供たちに謝罪を続ける宿命を背負おわせてはなりません。

 しかし、それでもなお、私たち日本人は世帯を超えて、加古の歴史に真正面から向き合わなければなりません。

 謙虚な気持ちで受け継ぎ。未来へと引き渡す責任があります」のヵ所です。

 赤字の部分に注目します。

 過去の戦争責任を語りたくない、打ち切りにしたい本音が見え見えのようです。

    ワイツゼッカーに学ぼう

 この部分を読むとき、ドイツの元首相・ワイツゼッカー次の言葉を思い出します。

 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」との演説です。

 国民に対し、ナチス・ドイツの過去をありのままに見つめる勇気を持つよう求めました。

 日本にも、一度この姿勢を謙虚に、世界む向けて示す必要がありそうです。

 確かに、若者にも関係のなかった戦争かもしれません。

 ですが、中国・朝鮮その他アジアの諸国に加害の事実をさらに知る必要です。

 そうでなければ、「しかし、以下は付けたしのように聞こえます」

 安保法案と完全に矛盾します。

 世界は変わったとして、中国・朝鮮の最近の動向を声高に叫び、外交努力をないがしろにしているように思えてしかたありません。(no2909)

 *写真:ワイツゼッカー

 

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高砂市を歩く(325) 宮本武 in 高砂(25) 武蔵の死

2015-08-18 09:37:52 | 高砂市

   武蔵死す

 正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。

 その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。

 きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者の想像です。

   高砂の潮風をききながら

 ・・・・

 「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」

 末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。

 「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」

 「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」

 途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。

 「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」

 伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。

 武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその方角にしっかりと据える。

 伊織が寄り、添って父の細くなった背を支えた。

 「気をしっかり持って、剣一途の長いながい遍歴の終わりを、どうか高砂の地にてお迎え下され」

 伊織としても、できれば武蔵を描磨へ連れ帰りたい。

 「おお、高砂浦の波音が微かに聞こえてくるではないか」

 「はい。明け方など風が波音を米田の生家にまで届けてくれました」

 耳に届いている波音が実は有明海のものだと伊織は口にできない。

 武蔵の眼が、そのときにわかに和んだ。

 眼から険しさが消え、孤高の色が消え、心持ち細くもなったかと思うと、伊織は、父を支える腕に重さを感じた。

 「父上っ」

 ・・・・

 5月19日早朝、宮本武蔵は62歳の命をようやく肥の国のしたたる緑の中に溶け込ませた。(no2908)

 <お知らせ>

 「宮本武蔵in 蔵高(25)」までを一部としておきます。

 いったん、このシリーズをお休みして、次の話題へ移ります。

 「宮本武蔵(二部)」は、少しお休みして続けることにします。

 *『双剣の剣客』(寺林峻)参照

 *写真:宮本武蔵坐像(熊本県美術館蔵)晩年の肖像画と思われる。

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