ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

平川第1号床固工から流路工の完成へ

2021-06-24 06:54:39 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。え~、前回の「平川頭首工」を見た後、平川のほとりに向かうとこんな案内板がありました。

「平川第1号床固工」1972年12月完成。通常、床固工(とこがためこう)は高さ5.0m以下の堰堤を指しますが、これは高さ7.0mと少し大きめの床固工と言えるでしょう。



その「お姿」がこちら。写真右上に少しだけ見えているのは次回の記事で紹介する「源太郎砂防堰堤」の一部です。



床固工本体に嵌め込まれているプレート。そこには「平川第一号床固」とあります。



案内板の近くを見ると2つの石碑が並んでいます。



「はじめに砂防ありき」とは1974年9月から1990年8月まで長野県北安曇郡白馬村の村長を務めた横沢裕の持論で、その在職期間中に全力で砂防政策に尽力したことがこの石碑の裏に記されています。



その隣にある「平川流路工」と題された石碑には横沢が砂防政策に尽力した理由を読み取ることができます。平川は以前から大雨のたびに土砂が大量に流出し、下流地域に被害を起こしていた。特に昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風は大糸線と国道148号の一部が土砂に埋まる事態に。

当時の建設省はその対策として昭和37年(1962年)から直轄の砂防ダム工事に着手。その産物として完成したのが次回ご紹介する「源太郎砂防堰堤」、そして「平川第1号床固工」でした。さらにこの床固工の完成後、流路の安定を図るために流路工事に着手。そうした一連の工事が終了したのが1990年で、これをもって「平川流路工」の完成となったわけです。



見た目では単なる川の堰き止め工事のように思えるかもしれません。でもその背景には作らざるを得ない理由があったんですね。なるほど、なるほど。

さて、いよいよ次回は当初の目的だった源太郎砂防堰堤に向かいます。お楽しみに!(まだまだひっぱります)
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