ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

生かされていることに感謝しよう

2006-08-05 18:24:52 | 脳みその日常
このところ毎日といってよいほど子供が犠牲となる事故の報道がなされている。ただでさえ少子化で子供の数が減っているのに、身勝手な大人の都合で小さな命たちはどんどん消されてしまう。なんということだろう。子供に関する事故の報道がメディアによってことさら取り上げられているとは思いたくない。以前だって子供は事故で亡くなっていただろう。それにしても連日飛び込んでくるニュースといえば子供がらみ。大丈夫か?我が国。

こうした報道を耳にするにつけ、我々大人は何と幸運なのだろうと思ってしまう。統計的に考えれば我々は事故などの不慮の事故に遭遇せずに生き残ったのだから。仮に子供の頃事故に遭ったとしても何らかの形で生き延びたわけで、その意味でも我々はラッキーという以外の何者でもないのだ。

自分自身のことを振り返っても、これまで何度か死神からご招待を受けそうになったことがある。状況からみて、どう考えても死んでおかしくないのになぜか生き延びたことは今考えても不可思議な現象には違いない。非科学的な発想だが、もしかするとワシにはまだ何か世の中でやることがあるから生かされたのではないか。そう考えたりもした。

でも、やることといったって、大したことじゃない。ここに落書きをしたのを皆さんに読んでもらうのも生かされた理由のひとつなのかもしれない。また、別の非科学的な発想によれば、この世に生きることは人間として、もしくは内在するであろう魂に修行させるためだともいわれる。

たとえ苦しいことや辛いことがあっても、それを乗り越えることで魂の修行になる。そして徳を積んだ魂は、いずれ肉体から離れる時、神秘学な表現を使えば「浄化」され、より高い段階へと進むのだとか。こんなことを考えながらリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の交響詩《死と変容(浄化とも訳される)》(1889)を聴くとその音楽が妙にスッと入ってくるから面白い。なるほど、なるほど…と。

そういえば、古代ギリシャの哲学者プラトンは著書『クリトン』のなかでソクラテスの言として「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなく、善く生きることなのだ」と記している。うーむ、これは先の魂の修行のことと何となく類似するものがあるよーな、ないよーな。

偶然であれ何であれ、我々は今現在生きている。というより生かされている。ならばより善く生きようじゃないか。た、たとえ思うように原稿が捗らなくても弱音を吐いてはならんのであーる…。

うぅぅぅぅ。
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