ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

FOMAの罠

2004-06-14 21:52:33 | 脳みその日常
いや、罠にハマっているのはワシなのだが…

これまで「化石仕様」の携帯を使っていたせいか、FOMAは魅惑的な美女のよう。だから、ついついその魅力に負けてしまっている。ああ、この誘惑を退けられない自分が悲しい。

一体、何がそんなに魅力的なのか。はっきり言って、自分にもわからない。敢えて言えば、目新しい機能が使えたり、いろいろなアプリで遊べるのが面白いということか。また、最初から内蔵されているゲーム・ソフトに加え、WEB上にはさまざまなソフトが揃っている。面白そうだと思えば、各サイトからソフトをダウンロードすればよい。あぁ、誘惑の泥沼に…

どうでもいいといえば、どうでもいいものなのだが、この内蔵アプリにはTVのリモコン機能まであるぢゃないか。使用者は、自宅のTVメーカーを選択するだけでよい。そうすれば、本来は電話であるはずのコイツは、赤外線リモコンに早変わりする。あちゃー、こんなに便利だと、ワシはますます「ものぐさ」になっちまうな。運動不足を何とかしなければと涙ながらに誓ったワシの姿は、もはや存在しない。
( ´△`)アァ-神様
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のんびり、のんびり

2004-06-13 23:23:04 | 脳みその日常
珍しく午前3時という早い(?)時間に就寝し、午前8時半に起床。
近頃陥っていた睡眠障害も、幾分解消されたか。
ことによると肉体が疲労していないことが原因だったのかもしれない。
でもなー、定期的な運動なんてやる気もないし…

それにしても今日は何もせず、のんびりと過ごしていた。
たまにはいいねえ、( ̄。 ̄)ボ~~~~ッとしてるのって。
こういうのが平和な状態なんだなあと、つくづく思う。

もちろん、こんな気分はワシの中だけであって、世の中はそうじゃない。
テレビを見れば、アホな政治家どものアタマの悪そうな発言ばかり。
政治家って、いつからアホの「ふきだまり」になったんだ?
利権のためだけに動く政治家なんぞ、誰も尊敬しないのにね。

心の底から人々の暮らしを良くしようと思う政治家なんて、今は皆無だろ。
どいつもこいつも、マヌケなことばかり抜かしよって。
たまーに、ナイスな発言をする奴がいても、
結局は政党政治という規制がその提案をつぶしてしまう。
いやだねえ、まったく…数の論理ってえのは。

何でもそうだが、必ずしも多数意見が正しいとは限らない。
宝石だって、何の意味もない多くの岩の中に眠っている。
それを苦労して見つけてくるから、宝石には価値があり、値段も高いのさ。
でも、ほとんどの人には岩山しか見えていない。

マスコミの腰抜けぶりにもあきれる。
オノレらの仕事は、その宝石を見つけて世の中に知らしめることではないのか。
にもかかわらず、コイツらも岩山しか見ていないアホ。
そうさ、コイツらも結局は利権に縛られているからロクなこともできない。
良いもの、素晴らしいものを知らしめるのは、決して大衆操作とは言わない。
いや、個人の力では知り得ない情報を、コイツらは掴める「ちから」がある。
そんな能力がありながら、事実を歪めて報道したりすることも多い。
だから、コイツらは「マスゴミ」といわれるのさ。

あーあ、やだねえ。
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運動不足やぁぁぁぁぁぁ

2004-06-12 23:03:08 | 脳みその日常
今日は昼過ぎからN社で打ち合わせ。通常ならクルマで行くのだが、ここは近隣に駐車場がないので、やむを得ず電車に乗る。いやー、久しぶりに乗ると、いろんなものが目新しく映る。思わずあたりをキョロキョロしてしまう自分が悲しい。まるでオノボリさんだ。

やっとこさN社に到着すると、そこには業界では有名な人たちがいた。あらあら、こんなとこにワシが加わって良いものかしら、と思いながら打ち合わせが始まる。当初は3時間ぐらいの打ち合わせかと思っていたが、甘かった。結局、夕方までずれ込み、あとはお決まりの飲み会(笑)

参加した人たちは何だか知らんが、ワシに関心をもったらしく、やたらと今までの仕事内容を聞きたがる。しょーがないので、かいつまんで説明することにした。しかし、面白かったのは、過去の音楽業界の話だ。今から30~40年ほど前のクラシック業界が、いかに今よりも活気があったのかを、彼らは懐かしそうに語っていた。もちろん、当時にあって、ワシはまだ業界の仕事をしていなかったから、ことのほか面白く聞いていた。実感はないにせよ、うんうん、確かにそうだろうなと思ったりして。

そんなこんなで午後9時半頃にお開きとなる。うわー、また電車に乗らなくちゃならない。憂鬱な気持ちで最寄りの駅に到着。行きは時間の関係で駅まではバスを使ったが、帰りは、なんとなく歩いてみたくなった。し、しかし…やめときゃよかった。

これがまた気が遠くなるほど長く感じる。歩けど、歩けど家に着かない。すでに全身は汗まみれ。しかし、もうちょっとだ。へこたれずに歩くのだ。そして、40分ほど歩いてやっと到着。もちろん、ふくらはぎなんてパンパン張ってる。うーむ、やはり運動不足は否めないなあ。
ヾ(_ _。)ハンセイ…
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ドライブ♪

2004-06-11 05:57:29 | ドライブ関連
ご無沙汰いたしました、恒例の深夜ドライブの時間です(爆)

本日は、新青梅街道を下り、箱根ケ崎から岩蔵街道に入る。そして終点の岩蔵温泉に到着。もちろん、こんな夜中に温泉が営業してるワケがないっ。だから、温泉を横目に見ながら飯能方面に向かう。そして、成木街道に入り、今度は名栗村方面へ。

でも、そのままいっちゃうと帰宅が朝になってしまうので、泣く泣く途中の松の木隧道のほうに曲がり、青梅街道に戻る。おーし、機会を見つけて、また今度トライしてみよーっと。ムフフフ…

帰りのコースは、そのまま青梅街道を戻ったのでは面白くない。そこで、吉野街道に移り、梅ケ谷峠を越えて武蔵五日市駅のほうへ行く。うーん、そろそろちゃんと戻らないとな(爆)しゃーないので、五日市街道をそのまま戻ることにした。本日の走行キロ数は、約100km。

…と、ここまで書いて、ふと思ったこと。関東の地理に詳しくない人や、ドライブに興味がない人がこれを読んでも、なんのことやら、さっぱりわからんだろうな、と。おまけに深夜のドライブなんて、美しい景色が見られるのでもないし、どこが楽しいのかしら…などなど。

まあ、そのように思われるのは、ごもっともであります。もし、ワシが助手席に乗っていたら、やっぱりそう思うだろうし。ましてや、峠のコーナーを攻め込もうもんなら、恐怖で身体がフリーズするのは間違いないだろうな。

ワシがひとりで深夜にドライブに行くのはですね、こんな時間に起きている人が身近にいないこともあるんですが、やっぱり、同乗者に不快な思いをさせたくないという気持ちがあるからなんですわ。それに、いったん走り始めたら、途中で休憩を取るなんてことも、まずしません。そう、ひたすら走り続けるんです。

どーせひとりで走ってるんですから、ワシはそれに楽しみを見出しているんだと思いますね。あ、もちろん、同乗者がいる時は、安全なスピードで走りますよ。そりゃそーですよ、それこそがマナーっちうやつですからね。

しかし、ワシができるだけ低速で走っているにもかかわらず、「ずいぶんと飛ばすね」とか「こわいーっ」とか抜かす人も、なかにはいます。まあ、人それぞれ恐怖の感覚は違うのでしょうから、ワシはそうした意見を無視することはしません。でもねー、だからといって、ノソノソ走ってたら、運転してるこっちが退屈で眠くなってしまうんですが。むしろ、そのほうが危険度は高くなると思いますよ。どちらがいいですか?(笑)

そんなスリルいっぱいのドライブを体験したい方がいらっしゃいましたら、どーぞご連絡ください。チャレンジャーとして歓迎いたします(爆)
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クライマックスはどこに?

2004-06-10 22:35:41 | 音楽あれこれ
たいしたネタがないので、本日の演奏会を肴に。

今日は、東京文化会館小ホールでフォーレ協会の定期演奏会を聴く。この会は、もちろんフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の作品だけが演奏される。フォーレ・ファンであれば垂涎ものだろう。ワシは別にフォーレ・フリークではない。以前批評をした関係で、ちょくちょく招待券が送られてきたというだけの話。

それはさておき。今回は初期の歌曲、《ヴァイオリン・ソナタ第1番》、休憩を挟んで、後期の歌曲、そして最後の作品となった《弦楽四重奏曲》というプログラム。それぞれの演奏云々については言及しない。ここでは、楽曲構造の解釈ということについて感じたことを記しておきたい。

フォーレといえば、フランス近代の作曲家であるが、同時に後期ロマン派の要素も多分にもちあわせている。1920年代半ばに書かれた《弦楽四重奏曲》ですら、そうだ。問題なのは、そうした形式で作曲された作品であれば、当然、形式の構造を意識した演奏でなければおかしなことになるということ。

いや、おかしいというよりも、作品のポイントが曖昧になるということだ。特にフランス近代の作品などは、同時代のドイツの作品などと比べ、形式が明確でない場合が多い。だからこそ、作品を面白く聴かせるために、音色を変化させたり、聴かせるポイントを決めておかないと「ぼやーん」とした印象しか残らない。

特に、《弦楽四重奏曲》などは同系の楽器によるアンサンブルであるから、奏者本人たちが思う以上にデフォルメするぐらいが、演奏としてはちょうどよく聴こえるものだ。しかし、こういった種類の音楽の場合、漫然と音符を再現するだけでは何が何だか解らないまま終わってしまう。そのことを奏者がわかっていないと、本当に聴いていてツマラない。

したがって、作品の構造がどうなっているのかを理解しておくのは当然として、奏者は聴き手の立場になることも必要となる。そのためには、楽曲構造上のピークはどこにあるのか、また、そこへ至るプロセスをどのようにもっていけば効果的なのか、ということまで考えなければ、その作品の良さは出ない。

もっとも、一流の奏者であれば、そんな面倒くさいことを考えなくても、本能的にクライマックスの部分を把握できるのかもしれない。だから聴き手は、深く感銘するのだ。でも、凡庸な奏者であればあるほど、演奏効果を計算するぐらいでないと、そこそこの効果は得られない。才能の有無…それは、どうしようもなく越えられない壁なのだ。
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不可解なこと

2004-06-09 23:17:34 | 脳みその日常
うーん、ここしばらくディープな内容だったんで、今日は軽めに。

何を隠そう、ウチには自然生物がよく出没する。その常連といえばクモ。いやいや、みなさん、クモといってもひとつの種類じゃないんですわ。短足小型のちっこいやつから、モデルも真っ青なほど脚の長いやつまで、いろいろ出現します。

そうそう、この間なんか、部屋でテレビを見ていたら、ワシの視界に何かが入ってきた。よく見ると、天井からまるで「落下傘部隊」のように命知らずのクモレンジャーが降下するではないか。もちろん、こいつは命知らずですから、ご要望にお応えしてティッシュに優しく包んで天に召して差し上げました。

いや、そんなんはどーでもよろしい。「侵入者」のなかでも不可解なのは、ナメクジですねん。雨なんぞがシトシト降り続くと、風呂場なんかの水回りのところに決まって現われよる。しかし、こいつの生態って、さほどわかっていないらしい。ネットで調べても、どのページも尻切れとんぼで終わっている感がある。調べていて思わず笑ったのは、ナメクジの好物がビールだってこと。なんや、こいつ、のんべえかいっ。

で、何が一番不可解かというと、こいつの軌跡が途中で消えてしまうこと。ほれ、ナメクジって、あのヌルヌルした粘液を残しながら移動するでしょ?そして粘液が乾くと、その道筋って跡が残るよね?とすれば、その跡をたどっていけば、こいつの「すみか」にたどりつくはず。よっしゃ、ここはワシが名探偵になって、こいつの一族の秘密を暴いたろ。そう思ったのでした。

と、ところがです。こいつの足取りは、なぜか途中で消えているんですわ。こ、これって、どういうことなんだ?ま、まさかナメクジが空を飛ぶんか?わからん、わからん…くそーっ、名探偵が「迷」探偵ぢゃないか(泣)

ビールは飲むし、素性は明かさへんし。
恐るべし、ナメクジ。
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指揮者の役割

2004-06-08 23:44:12 | 音楽あれこれ
指揮者とは、ただ指揮棒を振っていれば良いというものではない。それだったら、誰でもできる。しかし、実際には限られた人にしかそのチャンスは与えられていない。それは一体なぜだろう。いうまでもないことだが、ここで対象となるのはプロの場合であって、趣味でやっているアマチュア指揮者については含まれない。

誰でも知っているように、指揮者は自ら何かの楽器を演奏するわけではない。あくまで指揮棒を振るだけである。何も音を発しないのだから、指揮者は音楽家じゃないといわれそうだが、そうではない。確かに音を発してはいないが、彼は指揮棒によって音楽を作り出している。いや、彼の意志が楽団員に伝えられることによって物理的な音になるといったほうが正しいかもしれない。指揮者が異なれば違った音楽表現になるのは、このためである。

だからといって、指揮者は、ただやみくもに棒を振ればよいというわけではない。また、身体表現をオーバーにすれば良い音楽ができるというわけでもない。実は、そこがポイントなのだが、意外にもわかっていない指揮者が多いように思う。本日サントリーホールで聴いた大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルは、残念ながらその例だった。

大植は、1995年から2002年までアメリカのミネソタ管弦楽団の音楽監督を務めていた。これと並行して1998年以来、ハノーファーの音楽監督も兼任している。彼のスタイルといえば、全身を用いたアクションに特徴がある。おそらくそれは、バーンスタイン以降のアメリカ指揮界の「流行」なのかもしれない。とりわけ大植の場合は小柄なので、オーバー・アクションをせざるを得ないこともあるだろう。

しかし、残念ながらそうしたアクションの効果は、彼が思うほど楽団員には伝わっていないように思われる。ちょっと皮肉な言い方をすれば、まるで「空回り」しているのだ。実際に音として出てくるものは、彼のアクションほど表現されていないといってよい。その原因はどこにあるのか。

ひとつには、彼自身が演奏者と化しているところにある。前述のように、指揮者が音を発することはない。裏返していえば、指揮者とは、すべての奏者を客観的かつ冷静にコントロールするのが仕事である。ところが、彼の場合は、奏者と一体化してしまい、またまた悪い言い方をするなら「自らの演奏に酔っている」のだ。あのね、演奏に酔うのは、聴衆の役目なんだよ。たとえば、面白い話があると言い出しながら、その話し手が笑ってたら、聞き手は面白くも何ともないでしょ。つまりは、そういうこと。

彼がオケの全体を見ていない証拠のひとつは、後半のブラームス《交響曲第1番》で、明らかに弦と管のリズムが揃ってないことに気づいてないことだな。このオケのホルン隊をはじめ、管セクションはなかなか上手い。にもかかわらず、それを限りなく活かそうとしないのは彼が全体を客観的に聴いていないことにほかならない。いや、リズムの「タテのライン」を揃えれば済むことなんだよ。

指揮者に必要なのは、棒を振る技術だけではない。熱くなって演奏している奏者をいかに御すことができるか。もちろん、奏者を熱くさせてしまったのは指揮者である。だからこそ、指揮者は、自身のもついわば「オーラ」によってコントロールしなければならないのだ。

歴史に名を残した巨匠指揮者たちの映像を思い返すが良い。巨匠といわれた指揮者に共通するのは、決してオーバー・アクションではないこと。巨匠であればあるほど指揮は地味である。その代わり、巨匠たちは冷静に自らの表現する音楽を捉え、天賦のオーラを楽員たちに放つ。最初にワシが、指揮者は「限られた人にしかそのチャンスは与えられていない」と書いたのは、そういうわけなのだ。指揮者こそ、もって生まれた才能といってよい。いくら後天的に訓練しても、ある程度までしか到達できない。悲しいが、そういうものなのだ。

才能といえば、マーラーの《亡き子をしのぶ歌》を歌ったコントラルトのナタリー・シュトゥッツマンは、良かったねえ。特に最後の第5曲なんか、声が空中で渦を巻くように聴こえたもの。いやー、感心、感心。
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晴れ男なのである。

2004-06-07 17:32:44 | 脳みその日常
つくづくワシは晴れ男だと思う。関東地方も梅雨に入り、今日も気まぐれに雨が降っとる。昼過ぎに出掛けたのだが、ワシが空の下にいる時は、不思議に雨が止んでいるのだ。ワシの近くに、よっぽどの雨男か雨女でもいない限り、この「マジック」は起こる。なんなんだろうねえ。

本日出掛けたのは、ほかでもない。前に書いたAさんを、とあるマネジメントに紹介するためだ。何とかして彼にはグレードアップしてもらいたいと思っていたので、とりあえずワシがセッティングしてみたという次第。案の定、マネジメントのNさんと彼は純粋に音楽のことを語れたようで何よりである。

しかしながら、問題はこれからだろうなあ。何せ、今のクラシック音楽業界は、なかなか厳しく、二つ返事で「じゃあ、ウチでマネージしますわ」というふうにはならない。どの業界でもそうだろうが、生き残るために、みんな必死なのである。むしろ、Nさんのように純粋に演奏のことを考えようとしてくれるマネージャーは、希有な存在といってよい。

とはいうものの、Nさんにだって生活がある。できればAさんを何とかしてあげたいが、こればっかりはねえ…と、困惑気味。それでも、Aさんの今後の演奏活動について、いろいろと助言してくれていた。ありがたいことである。

さあ、あとはAさんが、どう頑張るかだな。ワシとしては、期待して見守るしかない。

話は変わるけれど、例のF社長の企画の件が正式に通ったらしい。まだ、内容に若干の微調整が必要なのだが、とりあえずは動き出しそうだ。となると、ワシも今までのようにノンキにしていられなくなる。きっと、突然バタバタし始めるんだろうな。
やだなー、( ̄。 ̄)ボ~~~~ッとしていたいのに(笑)

でも、どんな依頼が来るのか、まだ皆目見当がつかない。
ええいっ、いつものように「出たとこ勝負」やっ。
ぶはははは。
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魂の重さ

2004-06-06 16:26:40 | 脳みその日常
近年、凄惨な事件が後を絶たない。直近では子供による殺人事件があった。一体、命というものの重要性は軽んじられているのだろうか。いや、子供のほうが残酷な行為を平気でやれるのかもしれない。なぜなら、彼らは命の大切さを教えられていないからである。だからこそ、周囲の大人が「怪物ども」にその大切さを教えなければならないのだ。

最近話題になっている映画に『21グラム』という作品がある。これは、心臓移植を受けた男とそのドナーの家族をめぐるストーリー。タイトルの「21グラム」とは魂の重さだという。つまり、人間は人生の終焉を迎えた瞬間に、21グラムだけ体重が減るのだそうな。

もちろん、この重量については科学的に証明されているわけではない。魂の重さが21グラムだという根拠は、次のような説に基づくものとされている。1907年にマサチューセッツのダンカン・マクドゥーガル医師は、ひとつの研究結果を発表した。それは「人間は死ぬ瞬間に4分の3オンス(約21.3グラム)軽くなる」というもの。

マクドゥーガルは、魂も物質的実在であるという観点に立ち、死の瞬間に魂が失われるのであれば、魂の重量も計測可能だと考えた。そして、たった6例の患者から得たデータなのだが、それぞれの患者が亡くなった直後に4分の3オンスの体重の減少がみられたというのだ。それを根拠に「魂の重さは21グラム」説が発表されることとなる。

この仮説が『ニューヨーク・タイムズ』紙や医学雑誌『アメリカン・メディシン』に掲載されるや、すぐさま論争が起こる。たとえば、体重の減少は、血流の低下によって放熱されなくなり、体温が一時的に上昇して水分蒸発が起こったためではないか、といった反論など。

生理学的な疑問のほかに、マクドゥーガルの実験法に異議を唱えるものもいた。そもそも死ぬ瞬間をいつにするのかということである。こんにちのように心電図モニターなど存在しない時代に、いわば「ご臨終」の瞬間などは厳密にはわからなかったはず。また、呼吸停止を死の瞬間と設定したとしても、心臓の鼓動が続いていることはよくある。また、体重を測定する計器ですら、その精度についても疑問視されている。

こうした批判を受けて、彼は自説を再検証した。しかし計器の精度を上げることもなく、最終的に、魂の重量は0.5オンス(14グラム)から1.25オンス(35グラム)の間にあると結論づけている。もちろん、そんな研究は学問的に認められるわけもなく、単なるウワサ話の範疇にとどまることとなる。

もちろん、こんにちにおいても魂の正式な重量なんて誰も計測していないし、確定されたわけでもない。しかし、仮にそれが21グラムだったとしよう。21グラムって、一体どれぐらいなんだろう。そんなことを考えている時に見つけたサイトがコチラ。おぉっ、これこそ、ワシが求めていたものではないか。でも、魂の重さがモヤシ27本というのは、なんとも泣ける。これは、魂の「軽さ」じゃないかと…
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書き手との相性

2004-06-05 13:30:05 | 脳みその日常
読みやすい文章ってなんだろう。

ひとつには、専門性の低い文章ではないか。もちろん、それは内容のない駄文という意味ではない。ここでいう「専門性の低い文章」とは、むやみに専門用語を羅列しない文章という意味。ワシの場合でいえば、難解な音楽用語を多用しない文章ということになる。

だが、特殊な事例を説明する場合、専門用語抜きに語るのは難しい。なんとなれば、その用語の厳密な意味を認識していなければならないからだ。だから安易な書き手はバシバシと専門用語を並べ立てる。

もっとも、そういった書き手による文章に論理的矛盾はないかもしれない。けれども、読まされているほうは、たまったもんじゃない。読み進めていく上で、常に専門用語のところで目が止まってしまうからだ。「えーっと、これはどういう意味だっけ?」と。だから、できるだけ専門用語を使わないで、つまりはそれを噛み砕いた説明をすれば、読みやすい文章になる。当然の話だ。

もうひとつは、一文の長さの問題であろう。わかりやすい例でいえば、新聞記事のような文章だと多くの読者にわかるといわれている。これはどういうことか。つまり、一文の長さが短いというだけのこと。そのほとんどは、長くてせいぜい40字程度となっているはずだ。それぐらいだと、読み手の理解力を妨げないらしい。確かに、一文が長すぎると主語と述語が何であるかわからなくなる。そうなると、読み手は、再び文の最初に戻らざるを得なくなる。

昭和初期の哲学者に三木清という人がいた。ワシがまだ10代半ばの頃、その著書『哲学入門』(岩波新書)には苦い思い出がある。内容はもちろん哲学のことなので、難しいのは覚悟していた。しかし、入門と銘打ってはいるが、その文章の内容がちーとも頭に入ってこない。

「いやー、哲学は何と難しいものなのか」その時はそう思った。しかし、後になって読み返してみて気づいた。一文が長過ぎるのである。ワシの理解力の云々よりも、難解な理由はココにあったのだ。要は、短文だったら、まだわかりやすかったということなのである。

そのほかにも、読みやすくするコツはいろいろある。段落を短めにするとか、漢字を多用しないとか。あとは、書店に行って参考図書を探してください(笑)

読み手を想定して書くこと。これが読みやすい文章のコツではあるが、それでも越えられない壁がある。読み手と書き手との相性だ。

人間同士であっても、相性のいい人と悪い人がいる。それと同様に、読む文章との相性も存在するのである。ワシの経験からすると、自分が読みやすいなと感じる書き手とは、後に実際に会って話してみると、人間的にも相性がよい場合が多い。逆に、何だか読みにくいなと感じる書き手とは、実際に話しても相性がよろしくない。きっと思考プロセスが文章に表れるゆえに、書き手との相性もわかってしまうのだろう。価値観が違っていたり、主義主張が異なる人とうまくいかないのと同じ理由だ。

「文は人なり」とは、よくいったものである。
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浦山ダム

2004-06-04 04:47:29 | 埼玉(ダム/堰堤)
せっかくカメラ付き携帯を買ったので、試しに使ってみた。
もちろん、深夜のドライブの「証拠」として。(画像をクリックしてね)
ただねー、ハッキリ言って、これは使えんです(泣)
まあ、今後ともできるだけの努力はしますがね…

さて、今回行ったのは、秩父にある浦山ダム
これは、秩父さくら湖をせき止めているダムで、リンク部分をクリックすればわかる通り、実に壮大。
もちろん、それは昼間に見ればわかる話であって、予想通り、深夜に撮影しても「闇夜のカラス」。
いや、本当にこの周辺は真っ暗なんですよ。
たぶん、こんな時間にここで殺人が起きても、だーれも気づかんと思う。
(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル

しかし、ワシはヘタレではない。
今回の目的を遂げねばならぬのであーる。
とはいうものの、前述の通り、フツーに撮影しても何も写らん。
ええい、それならばダムを説明している看板を…というわけで、撮影したのがこの写真。
ライトは反射してるわ、画像はちっこいわ…で反省点は山積み。
でもねえ、被写体から少しでも離れると、たちまち画面は真っ黒になるんで、
まあ、このへんはご愛嬌ということで勘弁してくだされ。
画像の大きさについては、次回なんとかします。

それでも、収穫はあったんですよ。
まさにダムのてっぺんから見える夜景は最高なんです !
あぁ、この景色を撮影したかったな…。
真っ暗でも平気というかたは、ぜひ行かれるといいですよ。
狂喜乱舞すること間違いなし。(ちと、オーバーか)

ただし、です。
都内から下道で行くと、どうしてもR299を通らなくちゃならない。
ここは「走り屋さん」たちには有名な正丸峠があります。
もっとも、過激なワインディングは、今ではR299からチト外れたところにありますが。
それでも、シャコタンで大口径マフラーという出で立ちの面々がゴロゴロしているのも事実です。
あ、もちろん夜中の話ですよ。
おまけに、時間によっては大型ダンプなどがノソノソ動いており、
仮に追い越すにしても、なかなかこの道路、直線がない。
ったく、邪魔で仕方がないんですが。(苦笑)

うーん、やっぱり、露出を無限大にできるカメラがないと夜景は撮影できないな。
いくら200万画素という性能があっても、アカンもんは、アカンのやなあ。
(;´д`)トホホ

本日の走行距離 : 約160km
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矛盾だらけやな…

2004-06-03 09:18:45 | 脳みその日常
九州の子供による殺人事件が起きたな。
いま、マスゴミがあーだこーだ騒いどる。
各ワイドショーも好き勝手なコメントを吐いとるのぉ。
学校の対応が悪いとか、社会がどーのこーの…。

あのね、個人の行動なんて、誰も規制することはできんのやで。
ましてや、他人のことなんて、どこまで注目すると思ってんねん?
悲しいことやけど、しょせん他人は自分のことなんて構ってはくれんのや。
いや、構ってくれるとしても、その人が自分のことを正確に理解してくれてるとは限らん。
だから、学校の対応を非難するのは簡単やけど、学校側にしてみれば、たまったもんじゃない。
だって、それぞれの子供の行動なんて、どこまで把握できるっちうねんっ。
それは、物理的に無理やろ?

事件が起きてしまったことは、本当に残念なことではある。
しかしな、まずは家庭での教育やコミュニケーションを見直す必要があるんちゃうか?
たとえば、他人を傷つけたら、こんなにも血が出てしまうとかさ。
人に迷惑をかけたら、親も迷惑するんだ、とかね。

大人でも子供でも、事件を起こす人間には、それなりの理由がある。
何も理由がなくて、犯罪なんて起こさないやろ。
特に子供の場合は、まだ自我の形成が確立してへんのやから、親が責任を持たなあかん。
せやけど、この親、きっとそこまで考えたことはないんやろな。

今回のケースでは、刑法上の「おとがめ」はない。
いわゆる少年保護法が適用される年齢よりも低いからである。
せやけど、実際に人間がひとり殺されたんやで。
その責任は誰が取るんや?
加害者の少女に責任を追及できないとしたら、その責任は保護者である親じゃないの?
にもかかわらず、保護者にも責任は及ばない。
じゃあ、保護者って、なによ?
何かあった時に、責任を取るのが保護者の役目じゃないんか?
これが江戸時代やったら、連帯責任やで。
どう考えても、おかしいよな?

人権って、一体なんなんだ?
殺されてしまえば、人権はないんか?
殺した奴が子供であれば、殺されたほうは泣き寝入りするしかないんか?
「運が悪かったですね。諦めましょう」ってか?
絶対に間違っとる。
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浦島太郎彦左衛門でござる

2004-06-02 06:15:19 | 脳みその日常
新しい携帯電話を購入した。前にも書いたように、必要に迫られてのことである。最近の携帯電話の種類なんぞ、まるでチンプンカンプン。しゃーないので、ネットで調べまくる。

ほー、いろいろあるんやな。でも、みんな同じように見えるのはナゼ? ワシがオッチャンだからか? いや、自分を責めても始まらん。テキトーに目星をつけたのち、近所の大型家電量販店に向かう。

携帯のコーナーへ到着。あらま、やっぱり、種類がありすぎて、何がなんだかわからんなあ。軽いめまいすら覚える。うんうん、ネットであらかじめ調べておいて正解。該当する機種を探し、あっという間に手続きに突入。

ワシ「すんません、契約変更したいんですが」
店員「へっ?」
ワシ「いや、だから携帯電話の契約変更をお願いしたいと…」
店員「はぁ…」

おいおい、どーなってんねんっ。大丈夫か? コイツ。気を取り直して、

ワシ「今まではmovaだったのをFOMAに変えてもらいたいんですが」
店員「あぁ、機種変更ですね」

ナヌッ? ネットでの話とちゃうやん。ワシは、ちゃんとココを見て覚えてきとるんやで。シロートだと思って、コイツ、ナメとんか? まあ、グッとこらえながら、

ワシ「よろしくたのんますわ」とぎこちない返事。
店員「で、機種はどれになさいますか?」
ワシ「SH900iっちうのをください」(ふふ、もちろん速攻でリターンしたがな)
店員「わかりました。では、SH900iに機種変更することでよろしいですね?」

こらっ、コイツ、まだ用語を理解してへんやん。まあ、いい。つまらんことで波風を立てても、しゃーないしな。

ワシ「はい、それでお願いします」

てなわけで、7年ぶりに携帯電話を購入しました。それにしても、帰宅して説明書を読むにつれて、驚きの連続。何しろ、やたらとワケのわからん設定ばっかりあるし…。いらんやん、こんな機能。と、ブツブツ言いながら携帯に向かっていました。というのも、ワシは基本的に、電話には娯楽の要素は必要ないと考えてるのでね。たぶん、i-modeもメールもやらないつもりです。

ただし、カメラがついてるのは何かと便利そうなので、これは今後活用するつもりです。言うまでもないことですが、どこかのバカ学者のように盗撮目的ぢゃないんで、お間違いのなきように。SHを選んだのも、900iシリーズでは最も画素数が高かったからにほかなりません。これで、夜景がうまく撮影できれば、ここのブログに写真をアップさせようかとも思っております。

で、本当ならば、記念すべき第1号写真の夜景をアップするつもりでしたが、何せ、新しい機種を理解しようと熱中していたら、たちまち朝になってしまい…(泣)

最後に、タイトルに「彦左衛門」と追加したのは、もちろん浦島太郎の本名ぢゃないです。単に、ちとハイソな感じを出したかっただけでして。
アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー
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祖師谷、成城などなど

2004-06-01 06:23:11 | ドライブ関連
軽めのドライブ。

成城学園といえば、お金持ちが多く住んでいる地域として有名。そんなところへ深夜に行くなんて、「ドロボーに行ってきます」と公言するようなもの。いや、そーゆー意味じゃなくてね…。アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー

何のために行ったのかというと、どのように変わったのかを見に行ったのさ。何がって?いえね、ここは小田急線という私鉄が通ってるんだけど、近年、高架化されつつある。で、当然ながら駅も改築されることが多い。まあ、それも含めて見物に行ったという次第。

むかーし、アルバイトで通っていた成城学園前駅の近くにある銀行は、改装中でやんの。いや、銀行に通っていたなんて書くと、誤解を招きそうだな。まあ、通っていたといえば、そうなのだが、ワシが目指したのは銀行の中にある行員のための食堂です、正確に言うと。つまり、早朝に市場に行って食材を仕入れて、それを届けに行っていたというわけなんですわ。

でもね、それを単なる配送と思ったら大きな間違い。銀行の中の食堂ってね、ほとんどが最上階にあるんですわ。多くは、三階か四階なんです。何が大変って、総重量にすると200kgほどもある食材を、その食堂まで持っていくことなんですよ。しかも、階段を登ってですよ!(泣)銀行なんて、もともとケチな会社ですから、本店なんかを除いてはエレベーターなんてないんです。だから、人もモノも階段を使うしかない。

そんな労働をして爽やかな顔をしていられるワケがない。当然、運びきった後は、汗が滝のように流れる。場合によっては、目の前が真っ暗になる。そう、貧血ですな。でも、各支店に配属されとる給食のオバチャンたちが、みな天使のように優しい。「お疲れ様。大丈夫?」ってね。ええ、ええ、時には誘惑の眼差しビームを送ってくる方もおられましたよ(苦笑)

こちらとしてもね、社長のメッセージを伝えるっていう仕事もありましたし、実際、オバチャンたちは数十人分の食事を調理するわけですから、ワシも貧血でフラフラになりながら、ねぎらいの言葉をかけたりもする。少し余裕があれば、軽いオヤジ・ギャグを飛ばすなんてことも…(爆)それでも、この一連の作業は、日に7回もある。つまり、1日に7店舗ほどまわるわけです。死にましたよ、全身の筋肉が。

そんなことを思い出しながら、隣の祖師ケ谷大蔵の駅の方へ向かう。

w( ̄△ ̄;)wおおっ! やはり駅がモダーンになっとるやん。ここは、昔のバイト仲間(さっきのとは違うバイト)のAさんと浴びるほど飲んだ懐かしい場所。しこたま飲んだ後は、お決まりのラーメン。しかも、替え玉付きで(爆)当然、終電なんてとっくの昔に終わっとる。しゃーないから、Aさんのアパートに転がり込む。ここで彼のグロい趣味が発覚。

彼は、青学のエリートのくせに、ワシにスカトロのビデオを見ろと強要する。あのねー、もう、喉元までアルコールとラーメンで満タンになっとるんやで。ただでさえ気分が悪いのに、ダメ押しがスカトロかいっ。ええ、ええ、後学のために全部見ましたよ(泣)言うときますが、これは何の役にも立ちませんでした。当たり前か…(爆)ふと見ると、Aさん爆睡しとるし…。真剣に首締めたろかと思いましたね。いま彼はどうしていることやら。(御食事中の方、失礼しました)
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